【第二十七話】
朝から、コーンコーンと高い金属音が鳴り響いている。
時々、重機のモーター音がゴゴーッと合の手を入れる。
ベランダや、普通なら人がいるはずのないサッシの向こうから、人の足音と声がする。
12階から外してきた足場が、遂に、小田原泉の住む2階まで下りてきた。
足場に張り巡らされた転落や落下物防止の黒いネットは取り払われ、カーテン越しにも差し込む光の量が変わったのが分かる。半年以上続いた大規模修繕が、遂に終わろうとしている。
それと同時に、あのレンタルルームも終わりを迎える。
小田原泉は時計を見て、「あっ」と呟く。時間だ。
エントランスに下りていくと、山本善子が待っていた。
「遂に、最後ですね」
「そうですね」
二人は各々、管理人室前のボックスから、予約していた部屋の札を受け取り首から下げる。
歩いて5分のレンタルルームまでの道すがら、足元に春の訪れを感じる。
「あ、タンポポ」
「こぶしも咲いてる。桜もそろそろかな? ……そうだ! もし急いでなければ、あっちの公園通って行かない? レッスン、遅刻しちゃう?」
「大丈夫です。準備の時間を取ってるから。レッスンは、30分後なので。小田原さんは?」
「私も。まだ大丈夫」
「いいですね。じゃあ、寄り道しましょう」
公園のベンチは、小さな子どもを連れたお母さんとお年寄りで売り切れていた。
「混んでますね」
「ホントだね。ま、座らなくてもいっか……」
二人が立ち去ろうとしたとき、
「ここ、どうぞ」
母親の横で座っていた小さな子どもが立ち上がり、小田原泉に声をかけた。
「あら。ありがとう。でもね、大丈夫よ」
「すわらない、の?」
子どもは、恥ずかしそうに、ちょっとバツが悪そうに、佇んでいる。
「ありがとう。じゃあ、ちょっとだけ座らせてね」
小田原泉はベンチに腰掛けたが、すぐに立ち上がった。
「もう、いいの?」
子どもは、少し寂しそうだ。
「ありがとう。ちょっと休んだら元気出た。あとね……、あれ、見える?」
小田原泉が指差した先には、一番乗りに咲いたピンクの桜が一輪、青空に映えていた。
「あ、さくらだ」
子どもはニコッと笑った。
「そう。桜。立ってるほうがね、近くに見えるから」
「おばちゃん、さくら、好きなの?」
「うん。大好き」
「そっか。だったら、立ったほうがよく見えるね」
「うん。そうね」
そう言うと、小田原泉は、おもむろにスマートフォンを取り出して、指でピッと画面をなぞった。ピヨピヨと小鳥が鳴く音がして、子どもが首から下げた、小さなペンダント型端末が光った。
「あ! りんご?」
子どもはその場で飛び跳ね、胸の小さな端末を覗き込んだ。
「あ、ふじだ。おばあちゃん、ありがとう。わたし、だあいすきっ」
子どもが覗き込んだ画面の中では、林檎の品種の一つ、ふじをデフォルメしたキャラクターが飛び跳ねていた。
「席を譲ってくれてありがとう。おばちゃん、うれしかった。座って元気が出たから、桜を見つけることができたの。だから、おもいやりんご、貰ってね」
小田原泉はもはや地域通貨としての機能を失った、手の中のおもいやりんごを見ながら微笑んだ。
「もうたくさん集まったの?」
その光景を眩しげに見つめながら、山本善子が子どもに優しく問いかけた。
「うんっ。ほら、見て!」
子どもは誇らしげに、ペンダント型端末の画面を二人に見せた。
その中では、たくさんの種類の林檎のキャラクターが踊っていた。
「えーっ、こんなにたくさん集まったの? すごいね。お嬢ちゃんのここは、おもいやりんごでいっぱいね」
山本善子が、胸を手で押さえながら言った。
えへへ、と照れくさそうに、子どもが笑った。
【完】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
みんなのためにあったはずの「おもいやりんご」、いったい本当は誰のため?
誰かのためになっている?
ひっちゃかめっちゃかの珍事件の余韻を残す柏の宮町、小田原泉の、山本善子の、梅木浩子の心には何が残ったのでしょう。町はこれからどうなっていくのでしょうか。みなさまは、どう思われますか。
長い間のご愛読、ありがとうございました。
来週はエッセイを掲載します。また別の小説の連載を開始する予定ですので、そちらもよろしくごひいきに! どうぞお楽しみに。
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