刺繍 第一話

【第一話】

私の頭は、どうなっちゃったのかしら。

この間から、何かを考えようとすると、こめかみが痛くなって、頭の中に靄がかかったみたいになって、訳が分からなくなる。考えなくちゃいけないことがたくさんあって、それをやろうとするのに、何を考えようとしていたのか自分でもわからなくなって、考えることができない。何に追い立てられているのかもわからないのに、何かしなきゃいけないという思いに急き立てられる。それが何か探そうとするけれど、途中で自分がいったい何をしているのかわからなくなる。やることや、探しているものや、考えを思い出そうとすればするほど、頭が真っ白になって不安になる。

霧で覆われた森の中で、方向を失って彷徨い続けるように、私は何かを探して、何かから迫られて、途方に暮れる。
もうできないと、俯いて考えることを止めてふと目線を上げると、焦りや、不安や、混乱が一度に襲ってきて、目がくらむ。
涙が頬をつたい、それが、悔しいからなのか、怖いからなのか、情けないからなのか、腹が立つからなのか、悲しいからなのかわからなくて、そのどれでもあるかのような気がして、また混乱する。

……助けて。助けてください。お願いします。こんな状況から救ってくれるなら、神様でも、仏様でも、お医者様でも、何でも構わない。だからどうか、どうか助けてください。

「ええ。お願いします。テレビの修理に来てもらった電器屋さんに、通帳を盗まれたって言うんです。話を聞いてもよくわからなくて。何か勘違いしているとしか思えないんですけど。というか、そもそもそんな修理の必要あったのかもわからなくて。……はい。人の出入りはあったんです。先日、電話が繋がらなくて、NTTに来てもらって電話線が抜けていないか調べてもらったのですが、そのことと何かが混ざってるのかなと思うんですけど。……はい。お手数をおかけして申し訳ないのですが、ともかく一度、様子を見に行ってもらえませんか?」

認知症の疑いのある親を、離れたところに一人住まわせている子どもにとって、ケアマネージャーほどありがたい存在はない。
知らない誰かのために、こんなにも身を粉にして働いているのに、知名度も、人気も、待遇も低いのは何故か。儚い命を助けてくれるのが医者なら、おぼつかない命を見守ってくれるのがケアマネージャーだ。社会の中で、こんなにも重要な職務を担ってくれている彼らを、世の中は、もっと尊重し、優遇したほうがいいと思う。

かく言うわたしとて、母親がそういう事態に陥るまで、彼らのことをよく知らなかった。
「いつか来る」とわかっていても、「まだ大丈夫」という祈りのような正常性への認知の歪みが、そうした人たちの存在も意義も、自ら遠ざけてしまう。そして、いざという時になって初めて、試験の前の神頼みのように慌てて引き寄せ、頭を垂れるのだ。

母が認知症になった。
長いトンネルの入口に、わたしは立っていた。

母が「通帳を盗まれた」と言うのは、今回が初めてではない。

元々整理整頓が苦手で、探し物ばかりしていた人だけど、最近は、探し物をしている途中で自分が何を探しているのかを忘れてしまうことも多かった。
そして、わからないまま〝何か〟を探して手あたり次第ひっくり返して店を広げたところで、探し物をしていたことさえ忘れてしまうようになっていた。自分で広げた事実を忘れて、目の前に物が散らかされている様子を見て、「泥棒の仕業だ」と思い込むことも、一度や二度ではなかった。
母にとっての通帳は〝とても大事なもの〟で、母は何かの度に通帳を取り出して、持っていることを確認していた。そのため、探し物の対象になることも多く、必然的に「盗まれた」と思われる機会も多かった。

ただ、前回までは、自力で見つけられない事実への自己擁護から作り出すその物語が、いかに荒唐無稽で不自然な形をしているのかを自分でもうすうす感づいていて、ゆえにどこか自信なげで、こちら側の指摘が母にしみこんでいくのが分かった。「なんか、おかしいよね、それ」という思考が共有できた。

けれども、今回はそれがなかった。

「通帳がないの」に始まって、僅かな時間で、「あの人じゃないかしら」が加わり、「勝手に触ってた」となり、「持っていった」と言い出したと思ったら、「盗んだのよ!」へと変容していった。そうした思い込みの加速に戸惑いながら、やんわりと母のあらすじの綻びを指し示しても、かつての共有は程遠く、思いもよらぬ攻撃を受けることになる。

「なんで? 盗んでいったのに、どうして〝盗んだ〟って言っちゃ駄目なの? あの人よ。あの人が盗んだの。絶対そうなの!」

近年の母からはあまり感じたことのない強い語気が、受話器越しにわたしの脳に響く。
ああ、そうか。認知症の人の虚言を正すのは禁忌だった。
でも、さっきまで「そうね、そうする」と穏やかな声で、わたしの提案を受け入れていたと思っていた母が、彼女が決めた今日の話題のループを二巡したくらいで、態度を急変させるなんて想像しなかった。

思えば、かつての母は、気分屋で気が強かった。
わたしはよく、そんな母の気分任せの叱咤に晒されていた。
母の傍にいても、心安らぐというよりは、そんな母の機嫌の良し悪しを推し量ってばかりで、むしろ心は落ち着かなかった。それでも近くにいたいと思うのは、子の本能か。
わたしは母に、褒められたかった。

「ああ。そうでしたか。電器屋さんは実際にいらしたんですね。何しに? ……ちょっとわからないですか。……わかりました。で、やはり通帳は盗まれたと言ってるんですね。……え? 母が、今から警察へ行くって言ってる? そうですか。……あの、伊藤さんはどう思います? わたしは、警察にはもう少し調べてから行ったほうがいいと思うんですが。いつもの勘違いの気がするので。……電器屋さんの名前とか、わかったりしませんか? ……あ、あります? よかった。事情を話して尋ねてみます」

【第二話へ続く】

(作:大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

突然の緊張感あふれる出だしでした、大日向峰歩・新連載『刺繍』第一回、いかがでしたでしょう。認知症と聞いて「他人ごとではない」と感じられた方も多いのではないでしょうか。祖父母が、に始まり、親が、恩師が、知人が、とどんどん自分に迫ってくる経験を、今やしない人の方が少なかろうという時代です。この小説は、認知症の母親の介護をする娘の体験と心情をつぶさに描く物語……と思いきや、トンネルの先に意外なものが見えてきます。どうぞ次回からもお楽しみに。

作者へのメッセージ、「ホテル暴風雨」へのご意見、ご感想などはこちらのメールフォームにてお待ちしております。

ホテル暴風雨にはたくさんの連載があります。小説・エッセイ・マンガ・映画評など。ぜひ一度ご覧ください。<連載のご案内> <公式 X(旧Twitter)
スポンサーリンク

フォローする