刺繍 第四話

【第四話】

叔母は、祖母を自宅で介護し看取った経験から、娘のわたしに、母の代弁者として苦言を呈する。

「誰でも歳とったら呆けるの。何もしなくていいの。埼玉の大きな病院の先生もそう言ってるわ。あなたも読んでみるといい。とても良い本よ。本人が嫌がるなら、福祉のサービスだって受けなくていい。そのままでいいの。姉ちゃん、すごく怒ってた。〝私はいらないって言ってるのに、勝手にいろいろ手配して嫌だ。何にも問題ない。一人でできるのに〟って。あんなに怒ってる姉ちゃんの声、おばちゃん、初めて聞いた。長いこと働いてきたのだから、自由にさせてあげて」

「でも、いろいろ問題が起こってて。こないだも何も盗られてないのに警察に行ったりとかしてるし」

「でもまだ大丈夫よ。電話の声の姉ちゃん、元気だもの。ばあちゃんもよく〝お金盗られた〟って騒いだけど、よくあるのよ。歳とると、そういうこと。おばちゃんもあるよ」

「おばあちゃんはおばちゃんが同居してたし、おばちゃんも光子ちゃんたちと同居してるから、それでいいかもしれないけれど、うちのお母さんは一人暮らしだから。何かあった時にすぐ駆け付けられる距離にも住んでないし。心配だから誰かに見てもらってるんです」

「離れてると心配よね。一緒に住むにせよ、どこか施設に行くにせよ、ゆくゆくは娘のあなたの近くにいるほうがいいとは思うけど、今はまだ、一人で大丈夫よ」

無責任な発言に無性に腹が立った。
〝大丈夫〟の根拠はどこにあるのだろう。

叔母はこの三年、母に会っていない。
二か月に一度くらいの電話の会話だけで、いったい、母の何がわかるというのだろう。
ましてや、認知症の人はたまに会う人や初めて会う人に対して、至極まっとうな対応をするということを、認知症の親を介護したのであれば当然知っているのに。

わたしの不安を和らげるための気休め?
それとも、〝姉にはまだしっかりしていてほしい〟という願望?

様々な環境に置かれたそれぞれの患者のことを考えず、十把一絡げに〝何もしないでいい〟と言い放つ医師の耳触りの良い思想を盾に、叔母はわたしを〝娘のくせに〟という剣でブスブスと刺す。
「お母さんの身になりなさい」「もし自分だったらどう思う」「福祉の人に頼るのではなく、あなたが傍にいてあげなさい」そんな言葉を吐く代わりに、知らない医者の甘い理念を享受するよう迫る。

もしかしたら、叔母が母に「老いては子に従えだよ」的なことを助言してくれるかもしれないと思っていたわたしは、そんな淡い期待を抱いたことを、猛烈に後悔した。

そうだった。
この人は、こういう人だ。
一見柔和な姿勢を見せながら、静かに人を刺す人だ。

もう助けを求めたりしない。だから口も出さないで。
そもそも、その家の母娘の関係性も知らないくせに、〝娘が傍に住むのが当たり前〟と思うのは何故?「お嫁さんには気を遣うけど、娘にはそれがない」と言うけれど、娘しか産んでいない叔母に嫁はいない。他人の受け売りを、そのまま自分の言葉にして人に迫る、その感覚も嫌だった。
だから、子どもの頃に受けた恩義も楽しかった思い出も脇に置いて、冷たい言葉を吐いて、電話を切った。それ以来、叔母からの連絡はなくなった。

放胆が功を奏して、姉思いの叔母による思いやりの強迫からは解放されたけれど、あの電話の後、わたしの中にある染みのような黒い点がだんだん大きくなって、吸い込まれてしまいそうな感覚に悩まされた。
言い過ぎたのかもしれないという後悔や、もっと言ってもよかったという後悔が、渦になってわたしを沈める。

あのとき叔母に抱いた憤りは、もしかしたら、向けたくても向けられなかった母への憤りなのかもしれない。

病気が発覚して以降、コップに水が溜まるように、母に対する負の感情が、少しずつ心を満たしていく。それは、母が母でなくなることへの恐れだったり、母を思ってした行為への後悔だったり、気持ちに応えてくれない母への怒りだった。
一番辛いのは母なのだと、理解し、感じ、納得しているのにも関わらず、わたしは母を拒んでいる。
母が、弟に寄せた無償の愛の半分でもわたしに注いでくれていたら、違っていたのだろうか。
母を恨んでいないと言いながら、幼少期に母から受けたその傷から膿が出ている。

母の愛を感じないわけではない。
母はいつだって、わたしたちにたくさんの愛を注いでくれていた。

なのに、なんでだろう。
何を嫌悪しているの?
何に苛立っているの?
誰を妬んでいるの?

母思いの娘のふりをしながら、心の奥にこんなどす黒い感情を抱くこのわたしが、母と暮らす? どんどん老いていく母と。

ねえ、お母さん、わたしでいいの?

人は、されたことをする。
裏切られた者は、二度と裏切られたくないと自ら人を捨てる。
騙された人は、騙されまいと嘘をつく。
蔑まれた人間は、プライドを守るため、自分より弱くて低い人間を見下す。
そして、愛されて育った子は、受けた愛を返すように、我が子を愛する。

わたしはきっと、いろんなことができなくなっていく母を叱るだろう。
気分によって懐いたり、避けたりするだろう。
母の速度に合わせることもしないだろう。
日々、禁止と指図を繰り返すだろう。

そんなわたしを、わたしは受け入れることができるのだろうか。
母は、そんなわたしを許すのだろうか。

お母さん、本当に、わたしでいいの?

パンデミックが起こったのは、その直後だった。
答えの出ないまま、行動制限を言い訳に、現実と向き合うこともせず、わたしはただ、母からも母の病気からも逃げた。
そのしわ寄せは、突然、やってきた。

【第五話へ続く】

(作:大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

大日向峰歩作『刺繍』第四話、いかがでしたでしょう。今回のお話、エピソードとしては、実際体験したり話に聞いたりと、なんとなく知っている「開いた扉の奥に見える風景」のように受け取られる方が多いのでは、と勝手に予想しています。もちろん、扉の奥に入ったことのある方もいらっしゃるでしょう。ですが扉を開けて中に入った以上は部屋の中、壁も床も天井も、虫眼鏡でじっくり観察するのが峰歩さん流なのです! さあこの部屋に何があるのか、次回もどうぞお楽しみに。

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