【第七話】
「今のお母さんには、料理は無理なんだと思う。だから、ただ茹でるだけとか、切るだけなんだよ。それだって時間かかる。調味料も、台所器具も全部探しながら、一つ一つ確認しながらの作業になるから。一緒に料理してても、前だったら〝この作業をした後はこれ〟っていう作業の流れが共有できたけど、今は難しくてさ。ずっと〝次何するんだっけ?〟ってわたしの指示待ちなんだよね」
「姉ちゃんがあれこれ煩いから、手出ししなかったんじゃない?」
「台所はお母さんの城だから。あそこではわたしはアシスタントに徹してる。台所って、その家で家事をする女のテリトリーなんだよ。自分が使いよいように、カスタマイズしていった、その時点での完成品だから。スポンジの使い方ひとつとっても、細かく決められているの。違うスポンジで想定されていないものを洗ったらダメなの。その台所に入ったら、その主のやり方に従うの。〝こうしたほうがいいのに〟なんて、思考は入れちゃダメ。ましてや助言なんて言語道断。女同士の暗黙のルールっていうのかな。それはね、たとえ母と娘でも」
「へえ……」
「大体その作業の流れだって、元はお母さんがわたしに教えたものでしょう。レシピって、単に、材料とか調味料の塩梅だけじゃなくて、何を何分どうしたかとか、食材の洗い方や切り方、下ごしらえの仕方なんかの段取りとかも入るでしょう。おふくろの味を作ることにおいて、お母さんが一番その手順を知っているはずなのに、それがごっそりお母さんから抜け落ちてしまっているのよ」
「……そういや、前に実家に帰った時、変な食べ物出してきたんだ。味しなくて。これ何?って訊いたら、味噌汁だって言うんだよ。でも、味噌の味しないから、さらに訊いたら、煮物の残り汁に醤油入れただけだったという」
「うわあ。もしかしたらさ、醤油と味噌の区別もできてないのかもね。煮物の残り汁と出汁の区別も」
「まさか」
「まあ、そこまでとは思いたくないよね。でもたぶん、割と前からこんな状態じゃなかったかと思うんだ。それなのに、この二週間入院して調理から遠ざかって、ガスの使い方とか、覚えてると思う?」
「そりゃ大丈夫じゃないの? 何十年も使ってきたんだから」
「毎日使っていれば、手が覚えてるかもしれない。でもさ、毎日三食使ってても、調味料の場所も手順もわからなかったんだよ? もしかしたら火の消し忘れとかもあるかもしれない」
「確かに、火は怖いね」
「食器だってさ、どこに入ってるのかわかなくて、毎回、全部の棚を開けてるの。スプーン出すのもお箸出すのも、全部の引き出し開けて探すの。どこにしまったのかしらって言いながら」
「姉ちゃんが来るのが、たまにだからじゃないの? 普段使わないものだから」
「そうね。お母さんが自分で使う分は、全部外に出してる。スプーンも、フォークも、お箸も、お茶碗も、よく使うお皿も。全部一つだけ、テーブルに出しっ放しになってる。戸棚にしまうと、どこにいったかわからなくなるからだと思う。あれほど出しっ放しはだらしないと言ってたのに」
「年取ると面倒になるんだよ、きっと」
「それはそうかもしれない。でもきっと、自分の記憶が頼りないからでしょう。考えるのが面倒なんだよ。わたしね、お母さんが、何度も食器棚の扉や引き出しを全部開けて探してるのを見て、いつもそうしてるのって訊いたの。そしたら悲しそうに頷くの。もう、あんな顔させたくないよ。一人暮らしは止めてもらおうよ」
「じゃあ、どうするんだよ。僕たちのどっちかが一緒に住むってこと?」
「うーん……。とりあえずは、足を治すための施設に入ってもらったらどうかなと思うんだよね。伊藤さんが、まずきちんと歩けるようになることが大切だから、暫くは老健に入ったらどうかって言うの。わたしもそれがいいと思う。その間に、今後どうするのかを考えたらどうかな」
「ふうん……。ところでさ、さっきから言ってる伊藤さんって誰?」
「お母さんのケアマネさんじゃん。会ったこともあるよね」
「そうだっけ? あと、ロウケンって何?」
「老人保健施設」
「それって?」
「お年寄りのための、リハビリ施設。デイケアとして通いもできるし、入院みたいに入所もできるところ」
「病院と何が違うの?」
「病院は、病気なり怪我なりを治療するところでしょう。お年寄りの場合、病気や怪我が治っても、なかなか元通りにならないことが多い。特に怪我は難しいよね。そのために、リハビリ専用の施設があるらしいの。そういうところみたい。本当は、病院できちんと骨折を治してから老健でリハビリをしてもらおうと考えてたんだけど、アンタ、勝手に出しちゃうから」
「じゃあ、そう言ってよ」
「何度も言ったじゃない。家で一人はダメだって。とりあえず骨が付くまでは、何があっても病院にいてもらわないと、って」
「はいはい。全部僕が悪いんだよね。わかりました。だから、僕がやるって言ってるじゃん。姉さんに迷惑はかけないよ」
弟はそう啖呵を切って、週の半分、車で六時間かけて実家に通い、母の面倒を見始めた。
でも、東と西の二重生活は、そう容易くはなかった。
すぐに弟は疲れた。
そうでなくても母に溺愛され、子どもの頃から、男の子だからと一切の家事などしたことのない弟にとって、実家といっても勝手のわからぬ家で、自由に歩けない、物忘れの激しい老母の面倒を見ながら、自身の仕事をこなすことは、自分が思っていたよりも大変だったのだろう。弟が音を上げたのは、わたしが思っていたよりずっと早かった。
【第八話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『刺繍』第七話、いかがでしたでしょう。会話の中から見えてきた「弟」の人となり。母を退院させてしまってその後どうなるのか、嫌な予感しかしませんでしたがどうも的中のもよう。どうする、姉弟。どうなる、母!? 次回もどうぞお楽しみに。
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