心を紡いで言葉にすれば 第14回:違いの分かる男

松の内は7日らしいので、それより20日も過ぎてしまいました。
大変遅くなりましたが、新年おめでとうございます。
2025年も『ホテル暴風雨』および8080号室『内言、漏れてるから』をどうぞよろしくお願い申し上げます。

『内言、漏れてるから』で、この『心を紡いで言葉にすれば』とは別に連載している『刺繍』のほうも、少しずつ話が進んできました。
認知症を主なテーマにしたこの物語では、主人公であるサチコこと〝わたし〟の弟による場当たり的な振る舞いのせいで、主人公とその母は窮地に陥っています。

最近、私の身の回りには介護が溢れています。そういう齢になったのでしょう。
自分自身および周りを見渡しても、とりわけ年老いた親の介護においては、娘(および嫁)と息子(および夫)の現実認識の大いなるズレが散見されます。
どちらがより先に進んでいるかというと、『刺繍』で描かれるのと同様、大抵の場合、それは女のほうであることが多く、娘や嫁はいち早く異変を察知し、先を見据えて現実を受け止めるのに対し、息子や夫はなかなか現実を認めようとせず、変化を拒み、そこに留まろうとしているように思います。

もちろん、世の中にはいろんなお家があるので、「うちはそんなこと、ないよ」というお宅もあるでしょう。
私の狭い界隈での共通事例から導き出した見解ということで、ご容赦ください。

介護の沼に片足踏み入れた身としては、実際に、そのズレに苛立ったり、落胆したり、戸惑うことは確かに多く……。
しかもどうやら、この傾向は、相手が母親で、認知に問題がある場合、顕著に生じているように思います。

そういう目に遭ったり話を見聞きする度、どうして息子ないし夫は、なかなか現実を理解しようとしないんだろうと思い、彼らのこころに〝母不変願望〟があるのではないかという考えに至ったのです。

もちろん、単に面倒なことから逃げてるだけ、という疑いも否定はできません。
現に介護は、かなり面倒な案件です。突然、変わることを強いられる。
しかも大抵の場合、その変化は好ましいものではなく、半ば強制的にそうせざるを得ないもので、猶予もない。「ちょっと待って」が効かない。
だとしたら、その面倒さは、きっと娘にとっても嫁にとっても同じ。
でも彼女たちは、面倒だけど進もうとする。中には、変わってしまいつつある母を、なんならちょっとだけ面白がる余裕さえ持ちながら。

一方、息子や夫は違います。
彼らは〝お母さん〟は、ずっと〝お母さん〟でいてほしいと願う。
自分の言うことを何でも聞いてくれる聖母のような、何も言わなくても心を察して動いてくれるしもべのような存在でいてほしい。でも実際は、その聖母でありしもべである母(あるいは妻)は、自分のことも自分でよくわからなくなって、できなくなっていく。彼らの望む存在であり続けることは不可能です。

彼らもそれはわかっている。でも認めたくない。
そう。〝認めたくない〟のです。
聖母でもしもべでもない母を。言うことを何でも聞いてくれるお母さんが、言うことを何にも聞いてくれないお婆さんになるのを。

一般に、正常でありたいという願望が、現実認識を歪めてしまうことは、よくあることです。

『正常性バイアス』と言われるこの現象は、通常、災害場面で生じることが多い。
煙が充満する車内で逃げずに平静を保った結果、多くの人が亡くなった地下鉄火災が、その最たる例です。

誰だって突然、天地を揺るがすような変化(例えば富士山が大爆発するとか、マグニチュード7.0の直下型地震が襲ってくるなど)に見舞われれば、目の前で生じたその事態に否が応でも対応せざるを得ない。そのような時に「大したことはない」とか「こんなの普通普通」とは言えない。
命を守るには、すぐさま行動しなければならないことを本能的に感じているから。

正常性バイアスが作動するのは、前後の違いがはっきりと弁別できないくらいの環境の変化、じわじわとその脅威が近づいてくるような状況であり、「あれ?」と思った時には、時既に遅し、という場合なのです。
例えば、先述の火災のように少しずつ煙が充満してくるとか、水かさが少しずつ増してくるとか、周囲に少しずつ疫病の感染者が散見され始めるとか。

唐突ですが、テレビの音量調整を思い出してください。
ちょっと音が小さいな(あるいは大きいな)と思った時、リモコンの音量ボタンを押して音を上げたり下げたりします。
その時、たった一つ数字を大きく(あるいは小さく)しただけで、「おっ、変わった」と感じることはできますか?

とても聴覚に優れた人は、気づくかもしれない。
でも多くの人は、たった一目盛り数字を変えただけで、音量の変化に気づくことはできないのではないでしょうか。
数回あるいはずっとボタンを押し、「おっと。大きくなりすぎた(小さくなりすぎた)」となって、また少し戻すのでは?

人は、微細な刺激の変化になかなか気づけないものです。
もし、それに気づかないことで、結果的に命を脅かすことになるのであれば、本来、より敏感に違いに気づく必要がある。
でもできない。そのことは、人を不安にする。そして、気づいたときには手遅れになる。だから、気づかないふりをする。
「なんかちょっと変わった気がするけれど、たぶん気のせい」と、自分に言い聞かせる。怖いから。
変わらないこと。いつもと同じであること。正常であること。それによって得られる安心感と引き換えに、身を危険にさらす。

おそらく人は、とりわけ現実を直視したくない時に「大したことではない」と自分で自分に言い聞かせ、心の安寧を保とうとするのでしょう。
事実、正常性バイアスは不安から身を守るための、心の自己防衛とも言われています。

この認知の歪みは何も、災害に限ったものではないのでしょう。
親の介護における変化を理解しようとしない息子たちのこころは、不安なのです。
僕の、僕だけのお母さんが、知らないおばあさんになるのが耐えられない。

認知症はある日突然、発症するわけではありません。
それは少しずつ、本当に煙が少しずつ充満するみたいに、水かさが数ミリずつ増えていくように、進行するのです。
今までできていたことが、少しずつできなくなっていく。葉が一枚一枚落ちていくように。

たぶん、その微細な変化に一番最初に気がつくのは、当事者である本人なのでしょう。
次に気づくのは、心理学では〝重要な他者〟と訳される、その人にとっての大切な人たち。
大切な人とは、なにも、愛や好意が前提にあるというわけではありません。
大嫌いでも、憎んでいても、無関心でも、その人の人格形成や行動に多大な影響を受けたり与えた人であれば、その人は本人にとって〝大切な人〟です。
だからこそ、親にとって子は、子にとって親は、〝大切な人〟になりやすい。

子だからこそ、気づける。「なんか違う」がわかる。
そして、娘や妻は、そのように、少しずつ変わりゆく母や姑を前に、少しずつ準備する。
煙や水からいつでも逃げられるように備えるべく、支援のタイミングや手段を段取りする。
それは、目を瞑って見えないふりをしたところで、結局最後には、自分のところにしわ寄せがくると思っているからなのかもしれません。
令和の時代でも根強く蔓延る、家父長制の名残りのせい。家事は女が、という呪いのせい。

ちょっと前に、認知症の専門医が書いた、ある本を読みました。
彼は、患者や患者の家族たちに、日々、認知症の何たるかを説いています。
呆けたらああすればいい、こうすればいいと助言しながら、肝心の自分自身は、認知症になった母から目を背け、やがて訪れた介護を妹と嫁である妻に押し付け、ひたすら現実逃避します。
そして全てが終わって、一冊の本を出すのです。
認知症になった母の日記を世間に晒して。これが認知症患者の心だと、研究成果として披露します。

この本を読んだとき、私は〝ああ、ここにも居たわ〟と思いました。
研究者は時として、冷淡なまでに対象を見つめるけれど、そこにいたのは研究者ではない。
彼は、ただ、逃げていただけ。壊れていく母を見ていたくなかっただけ。
医師としてああしろこうしろと助言していた彼でさえ、そうなるのであれば、もう、息子なる者たちに、何も期待しないのが正しいのではないか。

多くの息子たちがするように、親の老いから目を背け「まだ大丈夫。そんなに変わっていない」と念じることで、束の間、こころは鎮まるかもしれません。
たぶんそれは、「痛いの痛いの飛んで行け」とか〝掌に人という字を3回書いて飲み込む〟とかと同じ。チューニングされて狂った音が元に戻るように、それを唱えたりしたりするだけで、心が整っていく。

そんな、おまじない。非合理で愚かで懐疑的だけど、ほんのひととき、確かに役立つ、そんなもの。

今度、彼らのそんなおまじないによって介護の足を引っ張られそうになったら、ダバダ、ダバダと呟いてみよう。違いのわかる男に変身するかもしれないし。

(by 大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

大日向峰歩作『心を紡いで言葉にすれば』第14回、いかがでしたでしょう。
「ダバダ〜」がわかる方、挙手願います!(私はもちろん、わかりますよ)
ご存知ないお若い方に解説しますと、その昔、「ネスカフェゴールドブレンド」というコーヒーのテレビCMにそういうのがあったのです。各界の著名人(文化人系。野村万作、岩城宏之、高倉健などが出演)をカッコよくフィーチャーして、違いのわかる男に飲んで欲しい一味違うコーヒーである点を訴求。インスタントコーヒーだってのに……と子供心に思ったものですが。
それはさておき、家族とは、比較的関係良好であっても「(相手に)いてほしいけど興味はない」という身も蓋もないところに落ち着きがちではないでしょうか。というか、人間ってそんなに他者に興味がないのかも。お互い様ならそれはそれ、役割的安定があれば案外長持ちするみたいですが、儚い砂の城のような、ちょっとしたきっかけで壊れがちな関係。しかし、一方が「興味・関心に基づく細やかな気遣いやケア」を提供し、もう一方が「興味・関心を向けなくてもメンテナンスフリーでそれを受けられる」からこそ「いてほしい」となるとアレだ、何かの火種の匂いがしてきます。母と息子の関係はそうなりがちなのか? 一般的かは私にはわかりませんが、その種の話はよく聞くし、ありありと浮かぶ類型です。『刺繍』の世界もその歪みゆえに崩壊するのか否か、小説の次回以降もエッセイもどうぞお楽しみに。

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