【第二十二話】
翌日の緊急科会は、大学院における学科長のような役割である専攻主任の蒲田が、学科長の松坂に代わり司会を取り仕切っていた。
「当面の間、学科長は私が代わりに務めます。つきましては、元々担当していた専攻主任を田辺先生にお願いしたいのですが……」
現専攻主任の蒲田が提案した。
田辺に学科長は務まらないという判断に基づく、妥当な提案だった。他の教員たちも意見は同じようだ。
固唾を飲んで田辺の反応を窺った。
田辺は若干頬を赤く染めたものの、「うーん」と言ったまま動かない。
「おわかりだと思いますが、他に人がいないんです。お願いします」
蒲田が頭を下げる。蒲田の次に年長の山本が援護する。
「今うちは院生が一人しかいないから、そんなに大変じゃないと思います。せいぜい2週に一回の専攻主任会議に出るぐらいです。予算の管理は事務助手がやりますし、カリキュラムも今今変更する予定もないですし」
田辺は同じ姿勢のまま、動かない。見かねた面々が追随する。
「他の先生はみんな、それぞれ委員務めてるんです。どこも大変でとても兼任なんてできそうにないんです。こう言っちゃなんだけど、一番やりやすいと思うんです。院生の研究指導は変わらず、現在指導されておられる蒲田先生がやるわけですし。田辺先生にはただ、主任という役をやってもらえればいいだけだから」
「今、専攻に在籍してるのは1年生だけだから、論文審査も再来年ですしね」
皆、口々に、プライドの高い田辺の自尊心をどうにか傷つけないよう配慮しながら、説得にかかった。やがて田辺が重い口を開く。
「うーん。蒲田さんが学科長と専攻主任を兼任したらいいんじゃないですか? だって、それこそやること変わらないでしょう。専攻主任は大学院の学科長みたいなものだし。院生が一人しかいなくて、それも指導してる院生なのだとしたら、それが適任なんじゃないですか?」
教授室に、深い溜息が溢れた。二酸化炭素が充満する。
「それは無理ですよ。院生は一人しかいないけれど、学科は各学年60人いるんですよ。学部生と院生では、カリキュラムも予算も違うじゃないですか。単に学生が一人増えるということではないんですよ」
泉が込み上げる怒りを抑えながら諫めた。蒲田が説得を続ける。
「なにも先生一人に大学院のことを全部押しつける気はありません。カリキュラムのことも、予算のことも、これまで通り、皆で相談して科会で決めていくわけだし。細かい事務作業は、助手の……」
「益子です」
「益子さんがフォローしてくださるのだから。専攻主任として、田辺さんは主任会議に出席してもらうことと、専攻に絡む事柄の最終責任者を務めてもらうことだけです。どうかお願いできませんか?」
みんなの話を神妙に訊いていた素振りをしていた田辺は、紅潮した顔を上げて、
「いや。でも無理ですよ。私には」
と言った。それまで下手に出ていた蒲田の顔が強張り、意を決したように告げた。
「田辺さん、無理とか言ってられないんです。緊急事態なんです。皆、手一杯なんですよ。研究に教育、大学の雑務。この大学だって、いつまで残るかわからない。若い人たちは、次のためにも十分に業績を積まなければならない。研究の時間を取ってもらいたいんです。でも、このままではなかなかできない」
「はあ……。でも私も手一杯なんです」
「手一杯? フッ。何に?」
それまで低姿勢に努めていた蒲田の紳士的な顔が崩れ、一瞬にして侮蔑の色が帯びた。
それを取り繕うように、蒲田は天を仰いで目を閉じた。
暫しの沈黙。一同、田辺の様子を窺う。だが田辺は、その期待を裏切り続ける。
「……何もそんな急いで決めなくてもいいじゃないですか。入学式も終わったばかりだし。学科長不在でも別に困りゃしない……」
「あの、別に入学式で登壇するだけが学科長の役目ではないですよ。ご存知だとは思いますが」
たまらず山本が割って入った。
田辺は一瞬顔を山本のほうへ向けたが、興味なさそうに再び視線を落とした。
理性を取り戻した蒲田が、穏やかに続けた。
「闘病中の松坂さんが戻ってくるのをゆっくり待ちたいところですが、大学の仕事は待ったなしなんでね。松坂さんの一日も早い回復を祈っていますが、現在意識不明の彼の意識が、たとえもし戻ったとしても、いかんせん脳梗塞ですから麻痺もあるかもしれません。実際のところ、夏までに大学に戻られるのはかなり難しいと僕は思っています。前期の間、ずっと学科長の席が空席というわけにもいかないでしょう」
何を言っても無反応な田辺に、蒲田はまるで子どもをあやすかのように説く。
「それに、もし奇跡的な回復を遂げたとしても、すぐ、学科長という多忙な任務を彼にお願いするというわけにもいかない。そう思いませんか?」
「それは、まあ……」
初めて言葉の反応が得られた田辺に畳みかけるように、蒲田が迫る。
「それなら田辺さん、学科長のほうを担当して下さいますか?」
田辺はギョッとした表情を浮かべ、じっと蒲田を見つめ、首を振った。
「そうでしょう。斉藤先生も仰っておられたように、私も専攻主任はやりやすいと思います。もう、この辺で手を打ちましょうよ」
蒲田は正しい。田辺もそれはわかっている。
でも蒲田が正しければ正しいほど、同僚たちから信頼の眼差しを向けられていればいるほど、田辺は自分が頑なになっていくのが分かった。
「できません。それをやらなきゃいけないなら、……辞めます」
その場にいた全員が言葉を呑んだ。
凍り付いた時間はこのまま動き出せないようにさえ思えた。叩き割ったのは蒲田だった。
「田辺さん、そういうことはこういう場で言っちゃ駄目です。絶対に。あなた、本当に辞めなきゃいけなくなりますよ。その覚悟、本当にあるんですか?」
紅潮した顔で田辺は机に掴み、首を振りながら「何と言われてもやりません。それでもやれと言うのなら辞めます」と言い続けた。
他の教員たちは皆、心の底からの侮蔑の視線を田辺に注いだまま、無言で、ただ事の成り行きを見守った。ただ一人、蒲田だけがそんな田辺に向き合い、「駄目です、駄目です」と反応していた。
【第二十三話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第二十二話、いかがでしたでしょう。田辺センセイ、欠席裁判の判決に思いがけない控訴。破壊魔と言われるだけあってただのやる気レスとは一味違うのか!? しかしこの「辞めます」宣言が波乱を呼ばないはずはありません。さてどうなる? 次回もどうぞお楽しみに。
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