【第二十三話】
感謝と敬意を置き忘れたまま、68年走り続けた。
自分が置かれている場所が、いかに周囲の人の助けや情けで守られてきたのかを、田辺は一度も考えたことなどなかった。
強士のことだって、ちゃんと見ようとしなかった。
どうすればいいのか、どうしてあげればいいのか、思いを馳せることから目を背け、その罪悪感を〝自分が働いて得た金で家族を養う〟という事実だけで、免罪できると信じた。
生きるために確かに金は必要だ。
だけど、金を運んでくるだけで、家族の一員になれるわけではない。
その日の夕食後、大学を辞めてきたと弥生に言ったら、弥生は、流しへ運ぼうと両手に抱えていた食器を落とした。茶碗が割れて、辺りに食べ残した野菜や煮物の汁が飛んだ。
「割れたぞ」
田辺はそう言って自席に座ったまま、動こうとはしない。
弥生は、破片を踏まないように気を付けながら流しへ行き、雑巾を持って戻り、床に散らばった食べ物を拾い、周りを拭いた。そして一言、「どうして?」と言った。
「もうあんなところで、働いてられないからだ」
「そんなこと言ったって……。これから、どうするんですか?」
「どうするって……。年金と貯金で食べていくさ」
「年金出るの、あと2年先ですよ?」
「夫婦二人が2年食べていくくらいの金はあるだろう?」
「夫婦二人じゃありません。強士もいるの」
「ああ……」
田辺は心の底から嫌悪の表情を浮かべた。それを見て、弥生が声を荒げた。
「あなたには、父親としての責任さえもないのね。何もかも、どれだけ丸投げしても、家族が困らないだけのお金を稼いでくる責任だけは、あると思ってたのに……」
そう言うと、弥生は声を上げて泣いた。
「大声を出すな。恥ずかしい。近所に聞こえたらどうする?」
「聞こえたって構いませんっ」
「わかったよ、わかった。俺が働けばいいんだろう。どうせ真に受けたりはしてないだろう。人手も足りないんだし。明日学校行って辞職を撤回してくるよ。ったく、いつまで俺はこうして働かなきゃいけないってんだ……」
「……やめりゃいいじゃん」
強士がいた。田辺と弥生が振り返り、茫然と息子を見つめる。
「嫌ならやめりゃいいよ。俺、家出るし」
「えっ」
滂沱の涙を流していた弥生が、驚いて強士を見つめる。涙は止まっていた。
「あんた家出るって……。どこ行くの?」
「適当に部屋借りる」
「フッ……。そんなお金、出さんぞ」
田辺は冷ややかな目で息子を見た。同じくらい冷ややかな目で強士が田辺を見返す。
「アンタの金なんていらねえよ」
「なにをっ。これまで散々養ってもらって生意気な。30過ぎた男がみっともないと思わんのか」
「ああ。確かに世話になってた。それは感謝してる。ありがとう。でももう、要らないから」
夫と息子の間に入って、おろおろしながら弥生が訊いた。
「要らないって……。どうするの? これから」
「自分で食っていく」
「どうやって?」
「ゲーム実況しててさ、まあ、少しは稼いでるんだ」
「ユーチューバーってやつか? そんなもん……」
田辺が鼻で笑った。
「アンタの知ってる生き方じゃないし、俺に望んでた未来じゃないかもしれない。でも俺が望んだことだから」
「強士、無理しないで。あんたのことは、お父さんとお母さんで。……ううん。お母さん一人でも、ちゃんと面倒見てくから。そんなこと考えなくて、ここにずっといればいいのよ」
「お前がそうやって甘やかすから……」
田辺が弥生を睨みつけた。次の言葉が続く前に、強士が言った。
「お母さん、ありがとう。でもいいんだ。俺、この家出るよ。でもその前に、一つだけ、聞いていい?」
「何?」
「なんで急に大学辞めるってなったの?」
「あ?」
自分に注がれるまっすぐな視線から目を逸らし、田辺は言葉を濁した。
「お父さん、大学辞めたってホント?」
翌日、優子がやって来た。
「そうなのよ……。何の相談もなく、昨日突然〝辞めてきた〟って言って、それきりよ。年度末ってわけでも、誕生月ってわけでもないのに、新学期始まったばかりのこのタイミングで突然辞めるって」
「それで大丈夫なの? 大学は」
「さあ……。どうかしら?」
「……なんかあったの?」
「なんかって?」
「だって、そんなの変じゃん。……もしかして、クビ?」
「……知らない」
「聞かないの?」
「聞いても教えてくれないもの」
「そんなの……」
「そもそもお父さんにとって私たちは家族じゃないから。ただ同居しているだけの人間。一緒にいる人への配慮とか気遣いみたいなものは全くないの。お母さん、ずっと嫌だった」
「……知ってた。お母さんがお父さんを嫌いなの。でも私は、お父さんに対して特に文句ないよ。確かに、一緒に遊んだり、どこかに連れてってもらったり、そういう父親らしい思い出は何一つないけど、ちゃんと稼いで、私のことも大学まで出してくれたし。お母さんなんて〝女の子は、短大くらいでいいんじゃない?〟とか言って、私が大学行くの、暗に否定してたけど、お父さんは違ったし。あずさのことだって可愛がってくれて、いいジイジしてくれてるし。お母さんはいろいろ言うけど、お兄ちゃんのこともさ、お父さんなりに大事に思ってるんじゃないのかなあ。たぶん、お父さんにとっての愛はお金なの。お金を稼いで家族を食べさせることが、お父さんの愛のカタチなの。なんだかんだ言いながらも、今でもお兄ちゃんのことちゃんと養い続けてるじゃん。偉いと思うよ、私」
「養ってるからそれでいいだろって? 馬鹿言わないで。そうやってアンタはいつもお父さんの肩ばかり持って……」
「そういうわけじゃないよ。お母さんは全部お父さんのせいにしてるから、それは違うんじゃない、って思うだけ」
「お父さんが強士のこと大事に思ってるんだったら、どうして何もしてあげないのよ。どうして20年も放っておくのよ」
「あのさ、いじめられて不登校になったあの頃ならいざ知らず、お兄ちゃん、もう35だよ。今のお兄ちゃんを助けられるのは、お兄ちゃんだけだよ。もし誰かに助けを求めるにしても、少なくともそれは親じゃない。お兄ちゃんが自分で見つけた、誰かだよ」
「そんなこと言ったって、あの子は15で時が止まってるんだから」
「ホントにそうなのかな。確かに、他の人みたいに進学したり就職したり、そういうのはなかったかもしれないけど、お兄ちゃんはちゃんと、外の世界と繋がってたよ。ネットの中だけかもしれないけど。それでも時々は、実際にコンビニ行ったり、電器屋に行ったりして、外の空気だってちゃんと吸ってたじゃん。ちゃんと時間は動いてたんじゃないの?」
「そんなの……」
「外に出て、リアルな他者と直接顔を見ながら話してつるんで、人並みに学校行って、仕事見つけて、結婚して、子ども持って、孫に囲まれて死んでいく。そういう、多数派の人がしてることができないんだったらできるようにしてあげなきゃいけない、って思うこと自体、それしかないと信じて疑わないこと自体、違うんじゃないの? お兄ちゃんが、そういう、みんなと同じなのを望んでて、自分一人ではどうしていいかわからなくて、助けを求めてるんだったら助ければいい。でもそうなの?ていうか、そもそもお兄ちゃんがどうしたいのか、お母さん、ちゃんと訊いたこと、あるの?」
「そんなことは……。訊かなくてもわかってるわよ。親なんだから」
「親は子どもの気持ち全部わかるの? 私、あずさのこと、わかんないことあるよ」
「それは母親として失格よ」
【第二十四話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第話、いかがでしたでしょう。「辞める」「辞めない」で大騒ぎ劇場、開幕! かと思いきや、あっさり辞めてきたという田辺。そのあんまりな「あっさり」スタイルは家族に対しても同じ……だったのか? 田辺の「潮時」、職場は前哨戦で、家庭内でのここからが本番なのでしょうか。次回もどうぞお楽しみに。
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