【第十一話】
「あ! 小田原さん」
マンションのエントラスで小田原泉に声をかけたのは、山本善子だった。
彼女の仲介で、梅木浩子と小田原泉が町長室で会ってから、1カ月半ほど経っていた。
その後、梅木からは特に連絡もなく、町政に何か進展があったわけでもなく、中井奈央子と遠距離通勤の呪縛から逃れ、無事にレンタルルームを利用できるようになった変化以外、小田原泉は、特に変わらぬ日々を過ごしていた。
「ああ、こんにちは。山本さんも、レンタルルームですか?」
「そうなんです」
「これから、ヨガですか?」
「いえ。今、終わったところです。小田原さんは、これから授業?」
「そうです」
「お疲れ様です。……あ、そうだ。前に相談に乗ってもらったアプリ、なんか、再開できそうなんです」
山本善子は、嬉しそうに微笑んだ。
「あ、そうなんですか。よかった。いつ?」
「まだ、はっきり決まってはいないみたいだけど来年には。本当におかげさまで」
「別に私はなにも。……でもよかった。お子さんも喜んでます?」
「ええ。新しいキャラクターも考えさせてもらったみたいで。はりきって作ってました」
「あれですか? 初回のダウンロードでポイント貯めた人のための? 限定キャラ的な?」
「たぶんそうです。私もまだ詳しくは教えてもらえないのでわからないんだけど、思いやりポイントを貯めて地域通貨に換えるだけじゃなくて、表示される〝おもいやりんご〟の林檎の種類が、出世魚みたいに変わっていって、コレクションみたいになるらしいんです」
「へえ、出世魚ですか……」
「いや別に出世ってわけじゃないけど、なんかこう、林檎にも種類あるじゃないですか。ふじとかシナノスイートとか紅玉、とか」
「それがポイントによって変わると」
「そうです」
「なるほど。コンプリートしたくなるんですね」
「そうだと思います。で、前のアプリをダウンロードして貯めた人には、限定で、かなりレアな品種の林檎が表示されるみたいで」
「へえ。それは面白いかもしれませんね」
「ま、子供だましなんですけどね。大人が喜ぶかどうかは……」
「はは。まあ、ねえ。……でも、いいんじゃないですか。楽しそうだし。私も使ってみようかな」
「是非是非。あ、でもこれ、内緒です。まだオフレコ。ふふ」
「わかりました。内緒にしますね」
「ふふ。よろしくお願いします」
小田原泉は、腕時計に目をやった。山本善子がそれに反応した。
「あ! すみません。この後授業なんですよね。ごめんなさい、足止めしちゃって」
「いえ。じゃ、失礼します」
「いってらっしゃい」
笑顔の山本善子に見送られながら、小田原泉はマンションを後にした。授業を2コマ実施して、小田原泉がマンションに戻ってきたのは、夕暮れ時だった。
(こんな時間に帰宅できるなんて、やっぱり通わなくていいって最高だわ。願わくば、自宅でできるといいけれど……。でもまあ、こうして歩いて5分くらいのところなら、ちょっと回り道して夕飯の買い出しがてら散歩にもなるし、ちょうどいいのかもしれないわね)
授業後、近所のスーパーに夕飯の買い出しに寄り、戻ってきた小田原泉は、エントランスホールにあるソファの横を通ろうとして、そこに、山本善子が座っていることに気付いた。
「あれ?」
「……あ! お帰りなさい」
山本善子が立ち上がって、微笑んだ。
「お待ちしてたんです」
(ん? ……待って、た? なんで?)
一瞬にして湧き上がる、戸惑いと不信感をできるだけ押し込めて、小田原泉は会釈した。
「どうされました? 何かお話しでも?」
「はい。……すみません。実は、さっきお会いした時にお伝えしたかったのだけど、お仕事の前だったので申し訳なくて。小田原さんが出て行かれた後、レンタルルームの貸出票を見たら、3時間くらい貸し出されていたので、大体このくらいの時間にお戻りなのかな、と思って待っていたんです。ごめんなさい。ストーカーみたいなことして」
「……そうだったんですね。な、なんでしょう?」
「あの……、大変申し訳ないのですが、もう一度、梅木さんに会って頂けないでしょうか?」
「は?」
「ちょっとまた、ご相談したいことが、あるようなんです」
「あれ? 梅木さんに名刺をお渡ししてるので、そういうことなら、直接私のところにお話が来ると思うのですが……」
「あ、そうなんですね……。私は、夫に〝小田原さんに頼んでほしい〟と言われただけなんでちょっとよくわからなくて……。あの、直接梅木さんからご相談は、なかったんですか?」
「ええ。あの後は特に……」
「そうなんだ……。変ですね。直接じゃ頼みにくいことなのかしら。ちょっと夫に訊いてみます」
「え? あ、はあ……」
山本善子は携帯を取り出して、何やら話をし出した。
「……今、大丈夫? うん。聞いてみたよ。小田原さん、梅木さんに連絡先お伝えしてるんだって。だから、直接連絡が来てもいいのにどうして?って。……うんうん。ああ、そうなの。そういうこと。それって、お伝えしてもいいの? ……うんうん。あ、そう。わかった。じゃあ、そうお伝えしてみる。うんうん。あ、遅くなるのね。わかりました。はい。じゃ、また」
山本善子が電話している間、小田原泉は所在なげに佇んでいた。
内心は、スーパーで買ってきた刺身を肴に早く帰ってゆっくりしたいのだが、立ち去るきっかけを逃したのだから、仕方ない。諦めて事の次第を見守るしかなかった。
「あ、すみませんでした。夫に確認したのですが、どうやら、梅木さんがお電話したけれど、繋がらなかったみたいで……」
「ああ。もしかして、研究室に頂いたのかしら。名刺の電話番号は研究室のだから。ここんとこ、レンタルルーム借りることができたから、大学に行ってなくて……」
「あー、そういうことですか」
「でも、メールアドレスは書いてあるんだけどな。メールじゃダメなのかしら?」
「なんか、メールじゃ、ダメみたいなんです」
「どうして?」
「うーん。わからないです。ただ、夫がそう言ってました」
「はあ……。じゃあ、どうしましょう?」
「あの、これ、夫の名刺です。お手数おかけして申し訳ないのですが、こちらにお電話頂けますか? 今日はまだ職場にいるようですので、この後にでも……」
「え、今ですか?」
「いえ。ご自宅にお帰りになってからで構いません。お疲れのところ、申し訳ないのですが……」
「わかりました」
帰宅後、小田原泉は電話をかけた。この件に関わったことをちょっとだけ後悔しながら。心のどこかに、関わってしまったことに対する執着みたいなものも感じながら。
そして結局、2日後に、再びあの町役場で彼らと面会する約束を交わしたのだった。
【第十二話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
アプリ再開に「おもいやりんごコレクション」登場、の前情報にちょっとほのぼの、めでたし、めでたし……では済みませんでしたね、やはり。崩壊の危機にある柏の宮町政に関わってしまったことが、この後どういう事態を生むのか。不穏な予感を漂わせつつ、次回をどうぞお楽しみに。
作者へのメッセージ、「ホテル暴風雨」へのご意見、ご感想などはこちらのメールフォームにてお待ちしております。