心を紡いで言葉にすれば 第6回:良かれとおもって

最近、私が誰かを想ってすることは、果たして本当にその人のためになっているのだろうか、ということをよく考えます。
8080号室で綴られるもう一つの文章『誰かのために』は、そうした、うまく腹落ちできない私の悩みのようなものが、知らず知らずの間に溢れ出てしまっているものかもしれないな、と思いながら、私はまた考えるのです。

『誰かのために』という物語の第十話の中でも、主人公の一人が〝利己的利他主義〟とか〝利他的利己主義〟とか、もはや利他なのか利己なのかわからなくなるような話をしていました。

さながら二重否定の罠のような。
友人を遊びに誘い「行きたくないこともない」と言われた時、「行きたいのか、行きたくないのか、結局どっちなんだ?」と悩むどころか、「もしかしたら友人に嫌われているのではないか」という疑心さえ湧いて出てくるような、惑わせっぷりです。

最終的にそれが自分のためなのか、あるいは他者のためなのか、という着地点の違いはあるにせよ、そしてその着地点の違いはかなりの隔たりがあるにせよ、そうした〝誰か〟のために良かれとおもって動く行為は、日常の中にも溢れているように思います。

我が子が怪我しないように、危険物を遠ざける。
友達が一人ぼっちにならないよう、自分の友人を紹介する。
恋人を喜ばせようと、自分にとって大切なものを贈る。
家族が病気にならないよう、体にいいものを食べさせる。
年老いた親が困らないように、デイケアや介護サービスを充実させる。

これらは全て、相手がそれを望んだ場合には、感謝されたり喜ばれたりもする。その行為は愛として認識されます。
けれども、相手がそもそもそれを望んでいない場合には、ただの押し付け行為であり、場合によっては暴力にさえなります。
おそらく相手は困惑の表情を浮かべたり、明らかに敵意や反抗をむき出しにして、その行為を拒否するでしょう。

そのとき、人は言うのです。
良かれとおもって。あなたのためを想って。そうすることがいいと思って。

そこに他意はないのかもしれません。
言葉通り。その人のために動いた行動なのでしょう。

前回の『心を紡いで言葉にすれば』第5回で、〝相手の身になる〟とは、自分の視点から離れて誰かの視点を取ることから始まる、とお伝えしました。
相手のために良かれとおもって動くとき、少なくともその瞬間だけは自分の視点を脇に置いて、誰かの視点に立ち、その望みを想像し、成就するよう手を尽くそうとしているのでしょう。「もしこの人だったら、きっとこうして欲しいはず」。そんなふうに思って。

だけど。
そうして誰かの視点に立つときでさえ、私たちは、自分を完全に捨て去ることができない、とも思うのです。

「私は要らないけど、この人はそれが欲しいんだろうな」というように、誰かと自分を切り離して考えることも、確かにある。
でもその誰かが、とても好きな人だったり、自分の一部のように感じたりする時、あるいは逆に、その人に関する情報が全くないにもかかわらず、否応なく相手の身にならなくてはならない時、〝その人の視点に立つ〟というのは、自分の視点を脇に置くことではなく〝誰かの視点の中に自分の視点を持ち込むこと〟なのではないか、と思うのです。

前回の『心を紡いで言葉にすれば』で記された〝誰かになるトンネル〟の出口に、自分を連れて行く感覚です。
そうなると上記の「もしこの人だったら、きっとこうして欲しいはず」という文は、実際には「もし〝私が〟この人だったら、〝私は〟きっとこうして欲しいはず」となるのです。

ここで、ある心理学の実験をご紹介します(注)。
その実験では、事前に、被験者自身に自分の性格特徴を尋ねます。具体的には、自分を最もよく表す特徴を二分間で書き出すと共に、159個の形容詞から自分の性格にあてはまるものを複数選んでもらう、というものです。
その後、知らない誰かがインタビューを受けている映像を見せられ、その人の印象や好意度および自分との類似度を答えてもらうと共に、先に自分自身について答えた時と同じものを用いて、その人の性格特徴を推測してもらいます。

映像を見る際、被験者は3つのグループに分けられます。
1つ目のグループは、映像を「その人の視点に立って、その人が何を感じ、何を考えているのかを想像しながら見る」よう言われます。
2つ目のグループは、「もしその人が自分だったら……と思い、その時自分は何を感じ、何を考えるのかを想像しながら見る」よう言われます。
3つ目のグループは、「観察者の立場から、その人が何をして何を言うかに注意を払いながら見る」よう言われます。

3つのグループ間で、インタビューを受けている人への印象や好意度、および事前に答えた被験者自身の性格特徴との一致度合いを比較したところ、最初の2つのグループと、最後の1つのグループの間に差があることがわかりました。
ただ相手を観察する場合に比べて、相手の視点を意識したり、自分が相手だったらと意識すると、相手に対して好意度や類似度が高くなる上に、自分の性格特徴と相手の性格特徴が一致する割合が高くなったというのです。加えて、観察するよう言われたグループ以外の2グループには、違いは見られなかったのです。

この結果から、次のことが想像されます。

情報の乏しい知らない誰かの視点に立とうとする時、私たちはその人ならではの視点に立っているのではなく、自分をその人に重ねている。その人が自分になる。自分を切り捨て、相手に移入するのではなく、自分を持ったまま、相手に移入する。ゆえに、自分とその人は似てくるし、自分だから好意も抱くのでしょう。
(もちろん、自分のことを嫌いな人もいるとは思いますが、一般的に人は自分に対して好意を抱いています。自分を嫌うことは苦しいので、無意識的にそうすることを避けているのかもしれません。この点についてはまた別途考えてみましょう)

先日読んだ本で、とても面白いものがありました。今日のテーマにもピタッと沿う内容です。
中島岳志さんの『思いがけず利他』(2021年 ミシマ社)です。
そこには、次のような記述がありました。

〝ここから見えてくるのは、特定の行為が利他的になるか否かは、事後的にしかわからないということです。いくら相手のことを思ってやったことでも、それが相手にとって「利他的」であるかはわかりません。与え手が「利他」だと思った行為であっても、受け手にとってネガティブな行為であれば、それは「利他」とは言えません。むしろ暴力的なことになる可能性もあります。いわゆる「ありがた迷惑」というものですね。(122頁)〟

心理学において〝利他〟というと、人を助ける行為である『援助行動』を連想します。
誰かを助ける時、私たちは、相手のことを考える。
「困っているだろう」とか「助けを求めているだろう」とか。

おそらくその根底にあるものは「もし私だったら困っているだろうし、助けてほしいだろう」という思いなのでしょう。
事実、援助行動を促進する要因の一つとして、〝過去に助けてもらった〟という経験があります。援助行動には〝返報性〟があるのです。「あのときの私は困っていた。そして、助けてもらって嬉しかった」という思いがあるから、人は誰かに手を差し出すのかもしれません。

もちろん、そんな経験がなくても〝困っている人を助ける〟というのは道徳で本能だ、という人もいるでしょう。身体が動く、というやつです。
本当に困っている人を前にしたら、多くの人は、居ても立ってもいられなくなるでしょうし、そうでありたいとも思います。

だけどその一方で、動けないというのも、また事実です。どうしたらいいのかわからなかったり、周りが気になったり。
それでも何とかしたいと思う時、人は、過去に助けられた経験や、万が一それがなくても、この先助けてもらうかもしれない未来を考え、目の前の他者と自分を重ねて動くのではないかと思うのです。

そうした「情けは人の為ならず」的に自分のことを考えながら利他的な行動をすることは、中島さんが危惧しているように、確かに危ういことなのかもしれません。何故なら、そこに本来の利他はないばかりか、暴力にさえなるから。「情けの連鎖」を貴ぶ社会は、それをしたくてもできない人や、それが情けと思えない人による〝連鎖の中断〟によって破綻します。そのとき社会は、切断面にいる人に責めを負わせようとするでしょう。
そもそも利他は、偶然でしかないのに。それが利他になるか否は、先にならないとわからないし、それは偶然によって容易に変化するし、受け取る側にしか決定権はないのだから。

そうだとすると「良かれとおもって」というのは、思い上がりなのかもしれません。
いや。思うのは自由です。でもそれを相手に押しつけてはいけない。
良いか否かを判断するのは相手だけであり、それも、何年、何十年先になって、やっと判明するくらいのものなのだから。

今じゃなくても、いつか、その人のためになっているのならいい。けど、それを見届けられないまま自分が果てたら……。あるいは、そのいつかが永遠に来なかったとしたら……。

このように、誰かのためにしたことが本当にその人のためなのかを考え出すと、私は、次の瞬間、怖くなって、差し出した手を引っ込めてしまいそうになります。
相手がその場で「違う。そんなもの、私は必要としていない」と言ってくれるなら、まだいいかもしれません。でも人は、本心を隠したりする。
「気遣ってくれるのに申し訳ない」という配慮や「正直には言いづらい」という遠慮や「悪く思われたくない」という思慮が、本心を隠してしまう。
だとしたら、もうあれこれ気にせず、思ったことをするのもひとつかもしれません。ただそのときに一つだけ、心に留めておくのです。
「良いかどうかを判断するのは相手。良かれを押しつけない。もしかして本当に〝良かれ〟になったらラッキーなのにね」

(注)Davis, M. H., Conklin, L., Smith, S., & Luce, C. (1996) Effect of perspective taking on the cognitive representation of persons: A merging of self and other. Journal of Personality and Social Psychology, 70, 713-726.

(by 大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

「利他」って何? 深いテーマです、思った以上に。

「良かれと思って」の結果が暴力になるだとか、してもらったことがありがた迷惑だとか、そういう話は溢れるほどに存在していますが、逆はどうでしょう。意地悪のつもりでやったのに大喜びされてしまったとか、誰かの嫌がらせが嬉しくてたまらないだとか、そういう例はあるのでしょうか。あまり聞きません。存在しないのではなくて、何かをしてもらって嬉しい時、してもらった方も相手の意図なんか気にしないってことかもしれません。うーん、利他って何でしょうね?

文中で触れられている本はこちらです(販売ページへリンクします)。

思いがけず利他 [ 中島岳志 ]

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