心を紡いで言葉にすれば 第2回:他の人の気配がするだけで

皆様は、人前で何かをする時、あがってしまって、しくじるタイプですか?
それとも、自分を見てくれる人のいるほうが気持ちよくなって、うまくできるタイプですか?
あるいは、何をするかによるよ、というタイプですか?

準備してきた何かを発表する場では言わずもがな、そこにいる他者とはその何かを伝える相手であり、彼らは発表者を見つめる存在になります。
でも、たとえ発表の場でも、意外と人は人のことを見ていなかったりするんですよねえ……。

敬愛する安部公房先生の言葉に「見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある」というものがありますが、誰かの注意を惹きつけ続けるためには、その人から愛を獲得するか、〝目を離したら殺される〟と思わせるくらい、警戒心を抱かせるかのどちらかしかないと思います。

きっと誰だってそんなことはわかっているのでしょう。
だって、何より自分自身がそうなのだから。他人のことなんて、意外と興味ない。それが証拠に、多くの場合、私たちは覚えていない。その人が何を着て、何をしていたのかを。

それなのに私たちは、人がいると緊張したり興奮したりします。自分は見ていないくせに、人は自分を見ていると思う。
見られている(と思う)だけでそうなのだから、他者が自分のライバルや仲間として存在する時には、さらに構えてしまいます。「あいつには負けないぞ」と奮起したり、「俺はこれしかやっていないのに、あいつはもっとやってる。やばいぞ」と焦ったりする。

心理学では、他者の存在が個人のパフォーマンスに与える影響のうち、ポジティブな方向への影響のことを〝社会的促進〟と、逆にネガティブな方向への影響のことを〝社会的抑制(または社会的制止)〟と言います。

そして何よりすごいのは、存在する他者が、見ている者でも、競う者でも、協力者でもなくて、ただそこに気配として存在するだけの者だとしても、同じくらい影響を持つということです。
8080号室で綴られている『内言、漏れてるから』の小説コンテンツ『誰かのために』でも、冒頭、主人公があることに悩んでいるのですが、それもこの〝他者の気配が自分の振舞いに悪影響を及ぼす〟というものです。

一般に、〝人目が気になる〟と言いますが、それはもはや摂理と言っても過言ではありません。ところが、そうしたことが指摘されて六十年ほどの間に行われた数多の研究をもってしても、「何故、他人の気配を感じるだけで、うまくできたりできなかったりするのか」という問いに対して、明快かつ確固たる唯一無二の答えがみつかっているわけではないようです。

そもそも人は社会的な生き物なので、他者がいたらそれを意識せざるを得なくて、否応なく自分の中にある〝あの人、気になるスイッチ〟が入ってしまうというのが大筋のところなのですが、それがたとえ意識する必要のない、興味のない人間だとしても、相手からの評価を気にして取り繕おうしたり、気が反れてしまって注意散漫になってしまったり、逆に相手から見られる自分そのものに注意が向かい、自身の中にある「ふつうだと思われたい」とか「有能だと思われたい」とか「いい人だと思われたい」というその時々の理想に、今の自分を近づけようとするのだと言うのです。

そして、その時に取り組んでいる事柄が、取り繕うことができたり、注意散漫でもやり遂げられたり、容易に理想に近づけられるような、簡単あるいは慣れているものであれば社会的促進が、とても取り繕えなかったり、集中しないと失敗しちゃったり、なかなか理想に近づけないような、難しいあるいは不慣れなものであれば社会的抑制が作用する、というわけです。

だから、最初にお尋ねした問いに「何をするかによるよ」と答えた人は、このことをちゃんと、あるいは直観で、把握されておられるということなのでしょう。

「なるほど。だとすると、人前で披露しても失敗しないためには、簡単あるいは慣れたものを選べばよいのね?」とお思いでしょう。

その通り。

しかしながら誠に残念なことに、人には欲があります。それを選んだほうが確実に成功するとわかっていても、「せっかく人前で何かするのだから、ちょっとかっこいいこと、したい」と思ってしまう。

普段、たどたどしい指運びでブルグミュラーのエチュードを弾いているのに、発表会ではショパンが弾きたいって思っちゃうんです。それも飛びっきり難しいの。同じエチュードでも、ここには利根川三本分、いや三十本分くらいの距離があるのに。で、失敗する(というか、そもそも差がありすぎて弾けない)。

難易度が高いものなのだから失敗して当たり前なのです。そこにはもはや、人がいるとかいないとかは関係ないのかもしれません。
でも、おそらく他者の存在は、その傾向を加速させる。
まともだとか、頭良いとか、優しいと思われたいという思いと、できない自分との間に広がる差に、私たちは戸惑い、さらに傷口を広げてしまう。

だからこそ、難易度が高いのであれば練習するのです。目を瞑っていても、途中で記憶が飛んでも、指が勝手に動いちゃうくらい。「私、失敗しないから」という決め台詞の医者がいたけれど、血の滲むような練習と引き換えに手にした、絶対失敗しない技術と経験と自信があれば、利根川三十本分だって棒高跳びの要領で飛び越えることができる、かもしれない。練習を笑う者、練習に泣くのであります。

(by 大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

『心を紡いで言葉にすれば』第2回「他の人の気配がするだけで」 いかがでしたでしょうか。
「誰かの目」「誰かの気配」ってそれほど大きな影響を人に与えるものなのですね。犯罪抑止効果を狙ったと思しきポスターで、歌舞伎役者の隈取りみたいな「目」だけの絵と「見ているぞ」みたいな文言が書いてあるものを時々見ます。効果あるのかなあ、と疑問でしたが、あるのかもしれないです。好きなアイドルの写真ポスターを部屋に貼るというのはよく聞きますが、大観衆(つまり、知らない大勢の人)の写真を貼ってピアノの練習をするなんてのは、どうでしょうか。

作者へのメッセージ、「ホテル暴風雨」へのご意見、ご感想などはこちらのメールフォームにてお待ちしております。

ホテル暴風雨にはたくさんの連載があります。小説・エッセイ・マンガ・映画評など。ぜひ一度ご覧ください。<連載のご案内> <公式 Twitter
スポンサーリンク

フォローする