心を紡いで言葉にすれば 第8回:記憶の森の奥深く

我が家には怪獣がいます。
怪獣とのコミュニケーションは、とても大変です。
怪獣の口から出る言葉は、「これ」「それ」「あれ」ばかりだからです。
応戦する私は「どれ?」と問い続けなければなりません。

怪獣「あのさ、こないだのあれ、どうした?」
私「どれ?」
怪獣「あれだよ、あれあれ」
私「だから、どれ?」
怪獣「あ、それそれ」
私「えっ、どれ?」
怪獣「だから、これだってば」

このやりとりにおいて、私が果たした役割は、いかほどだったのでしょうか。
相手は別に、私じゃなくても、壁でよかったんじゃないか、と思ったりもします。
だって、私は「どれ?」としか発していないのだから。

それとも、この「どれ?」が、怪獣が彷徨う森の、深い霧を晴らす、魔法の言葉だったのでしょうか。
まるで、世界一有名な魔法使いが発する「ルーモスマキシマ!」みたいな。

そして、そんな呪文を唱えた私自身、ふと気がつけば、深い霧で覆われたその森の中に入り込んでしまっているようです。

かつて、デイヴィッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』を観ました。
彼の作品は好きなのです。だからそれも、日本で公開してすぐ観に行きました。誰かと。

観る前に、信頼できる映画通の師匠から「騙されないように」と言われました。だから、騙されないように、警戒しながら、鑑賞しました。
「冒頭の数分間は、とりわけ注意するように」
そうも言われていました。だから、絶対に何も取りこぼすまいと、必死でスクリーンを見つめました。全てを記憶してやる!そんな気負いさえ持っていたような気がします。

だけど私は、容易に騙されました。エンドロールが流れる間、無数の〝?マーク〟が頭を埋め尽くしました。脳内メーカーの漢字のように。
だから、場内が明るくなった途端、同行者に問いました。
相手の脳内メーカーも〝?〟ばかりでした。二人の〝?〟が補完し合えればよかったのに、〝?〟は別の〝?〟を生み、〝?〟の相乗効果をもたらすだけでした。

それから16年後、ある人に「この作品、観たことない」と言われ、私は当惑しました。その人こそ、あのときの同行者と思っていたのです。
最初は、その友人の記憶を疑いました。友人も自信なさげでした。「観てないと思うけど、あなたがそう言うなら、観たのかもしれない」
だから、再び一緒に観に行きました。二人の記憶を確認するために。
そして言われたんです。「いや。やはり初めて観たよ」と。

その日はリンチ監督の特集をやっていて、2本立てで『ロスト・ハイウェイ』まで観たので、そう断言されてもなお「いやいや。2つが混ざっちゃったんじゃない?」と言いました。事実、私の頭の中では既に、この2つの作品が混ざり合い、弁別できなくなりつつありました。
「こんな話だったっけ? 私も初めて観たような気がするよ」と言いながら、私はなおも、釈然としませんでした。あの日、隣にいたのはその友人だと信じました。

でも……。
やっぱり違ったらしいんです。

ではあのとき、共に〝?〟を酌み交わした人は一体、誰だったのか……。
あれからさらに6年経ちましたが、今もって全く思い出せません。
それどころか、今回、この散文を綴ろうと思って『マルホランド・ドライブ』のことを調べていたのですが、「こんな話だったっけ?」のオンパレードでして……。

私の記憶の森は、深い深い霧に覆われてしまっているようです。

確かに、人間の記憶ほど、あてにならないものはありません。

きっと、皆さんの家にも指示代名詞ばかりで会話する〝こそあど怪獣〟はいるでしょうし、読んだはずの本や、観たはずの映画、聴いたはずの曲が思い出せないばかりか、あたかも初めてそれらに触れたかのようになったり、「そんなの知らない」と突き放したりしたことは、一度や二度あるのではないでしょうか?

はたまた、心打ち震えるような体験をしたあの時、一緒にいた人はこの人だったと信じていたのに、実は全く別の誰かであった、という、身も震える体験をした人だって、一人や二人はいるのではないでしょうか? 私のように。

聞きたくないお小言や、見たくない部屋の隅の埃を〝なかったことにする〟みたいなことではなく、ちゃんと読んで観て聴いた思ったはずのものでさえ、ごっそりと、あるいは、その一部分が抜け落ちてしまうような経験を。

私たちには、必要な情報を取り込み(記銘)、脳や心や身体に留め(保持)、思い出す(想起)という記憶のしくみが備わっています。ですが、取り込み、留め、思い出された、その記憶が、事実であるか否かは保障されていません。
記憶は、その人の中で、再構成されるからです。

ある有名な実験があります。

この実験で、実験参加者(被験者)は、物語の筋を追いづらく、突拍子のない結末で、彼らの文化では馴染みのない風習が描かれているある民話を聞いて、その内容を覚えるように言われます。
覚えた後、一定期間(最大10年)が経過し、再び彼らに、物語の内容を思い出してもらうよう依頼しました。

すると、民話の内容を省略したり、自分にとってつじつまの合うように合理化したり、ある事柄のみを強調したり、細部が変わってしまったり、順序の入れ替えなどが生じ、元の民話とは異なる、とても短いものになっていることが明らかとなりました。
そしてその変容が、それぞれの実験参加者が、各々、過去の経験によって身につけた知識(その人にとっての常識や概念、行為などの情報の束)によって作られる、ということがわかりました。

私たちは、出来事を記憶する際、事実をありのまま覚えるのではなく、自分の持っている知識に紐づけたり、知識を用いて出来事を解釈します。
そのため、知識に紐づけられなかったり、解釈不能な出来事については、〝なかったこと〟として記憶から押し退けたり、解釈に沿うように事実を書き換えるのです。

そうしたことは、私たちが日々、生活をしていく中で必要なことです。
私たちはあまりにもたくさんの情報に囲まれ、それらを処理しなければならないので、効率的に記憶していくためには、そうするしかないともいえるでしょう。

ですが、そうやって都合の良いように情報を改ざんし、記憶に留めたということを、きちんと把握していない。そもそも、改ざんしたことにさえ気づいていない。ほとんどの場合、それは、無自覚的になされることだから。

多くの人は、自分の記憶は正しいと思っている。
忘れてしまうことはあっても、改ざんされ、事実とは異なってしまった可能性があるということを知らない。
だから堂々と証言をするのです。少しくらい抜け落ちていることはあったとしても、大筋のところでは、それが事実である、と。

8080号室で綴られているもう一つの文章『誰かのために』の第十五話でも、物語の筋に関わる、重要な目撃証言がありました。
あの物語ではどうなのかは先を読んでのお楽しみなのですが、実際に事件や事故を目撃した人間が、後で証言させられる時、それが、必ずしも正しいとは限らない。

さらに、目撃証言においては、尋ねる側の質問の仕方でも、証言が大きく変容することが明らかとなっています。

ある交通事故の映像を見た後、事故を起こした2台の車の推定速度を尋ねられる際、片方のグループには「激突事故を起こした時、車は何キロくらい出していましたか?」と尋ねます。そして、もう片方のグループには「接触事故を起こした時、車は何キロくらい出していましたか?」と尋ねます。
すると、〝激突〟の文言が入っている質問をされた人は、〝接触〟の文言が入っている質問をされた人よりも、推定速度が速かったり、実際の映像にはなかった〝ガラスの破片〟のようなものを見たと答えたのだそうです。

また、「この車が納屋の前を通りすぎた時」というように、実際の映像には映っていないもの(納屋)を質問に入れ、同様に事故車の速度を推定してもらい、その翌週、映像の内容を思い出してもらった際、実際の映像には映っていないものを〝見た〟と答えた人は、そうした偽の情報が入っていない質問をされた人に比べて多かったことが明らかとなりました。

おそらくこれらの実験の参加者は、実際にはなかったはずの情報を前に〝私が見落としてしまったのだ〟と思い、元ある記憶にその情報を付け足そうとして、〝激突なのだから、相当なスピードが出ていたはずだ〟とか〝納屋の前を通り過ぎたのだったら、納屋はあったはずだ〟と記憶を書き換えてしまったのでしょう。

かように、人間の記憶は危ういものなのです。それは決して、事実なんかじゃない。

おそらく、私はあの時、あの友人と一緒に『マルホランド・ドライブ』を観たかったのです。あの難解な、でもとっても興味深く魅惑的な作品を。
「決して騙されるな」と助言されたあの作品に立ち向かう時、私は友人の知恵や記憶力を必要としていた。それは決して、友人の代わりに一緒に観た人が物足りなかったというわけではなく、鑑賞後に〝?〟で満たされた私の脳は、今すぐそれを読み解く力を欲した。そして、自分の周囲で、最も力を貸してくれると思った友人に、それを求めた。
もしかしたら、作品を理解できなかった私の力不足を、〝あの友人でさえわからなかったのだから、仕方ない〟と変換させることによってごまかし、補填しようとしたのかもしれません。そうして、記憶は再構成されていった。ただの願望が事実として記憶された。
そんなところなのでしょう。

働き盛りとか現役世代とか言われる今でさえそうなのですから、歳を重ね、いろんなところの力が衰えていくようにもなれば、今さっきしたことを忘れても、お気に入りの店の名前はおろか、その存在ごと忘れても、今日がいつか忘れても、洋服の着方を忘れても、家族や友人と旅をしたことを忘れても、最愛の人の名前を忘れても、その人を愛した過去を忘れても、仕方ないのかもしれません。

記憶の森は深くて、迷ってしまう。

冒頭にお話しした、〝こそあど怪獣〟が彷徨う森の霧を晴らす呪文だって、「あれ」が「どれ?」によって「それ」になり「これ」になっただけで、結局のところ「あれ」の正体は、最初から怪獣の頭の中だけにあって、最後まで「どれ?」は、その固有名詞を思い出させる呪文にならなかったし。

でもきっと、ふとした瞬間、なんかの拍子に、束の間だけど、霧は晴れる。
そこに見えるものは、概念や固有名詞や事実から解き放たれた、剥き出しの感情なのかもしれません。願わくばそれが、あたたかくて、優しいものでありますように。

(by 大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

記憶って本当に、儚いものです。みなさまは映画『マルホランド・ドライブ』ご覧になったでしょうか。私は観ました。ここでカムアウトしますが、何を隠そう大日向峰歩さんが一緒に観たつもりになっていた友人とは私のこと。その時の顛末や映画のことも過去に記事に書いていますのでよかったら、記憶の怪しい大人二人・二視点からの物語として、今日のエッセイと合わせてどうぞ!

観る人を混乱に陥れる名作、デヴィッド・リンチ監督『マルホランド・ドライブ』を、極めてマルホランド・ドライブ的に鑑賞したというお話。映画の紹介と10倍楽しめる鑑賞法。

ついでに↓こちら↓もよかったら。「こそあど」こそは神ではないかと真面目に考察した記事です。というのは嘘ですが、いや〜記憶って(以下略)。

「あれ」とか「それ」とかを多用する会話は老化のせいではなく神の領域ではないかという恐ろしい話……ではない。

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