心を紡いで言葉にすれば 第12回:開かずの扉を開けて

先日、実家にある自分の部屋の片づけをしました。
人の住まなくなった家の行く末を考えなければなりません。
両親は、この家も、思い出も、たくさん残してくれたけれど、それに輪をかけて、大量のモノも残してくれました。
開かずの押し入れはたくさんあって、なかなか開ける気もわいてきません。
でもやらねばならない。せめて自室だけでも。

そんな、モノで溢れた実家ですが、そこに過去の私がさらに追い打ちをかけてきました。
かつて、一人暮らしの部屋で不要になったものを実家に送り付けていたツケが、回ってきたのです。

そういえば当時、このホテルのオーナー雨さんに言われました。
「要らないものを実家に送るの? どうして? 捨てればいいじゃない」

うん。そのとおり。捨てればよかったのです。でも捨てられなかった。
「面倒だから」というよりは「いつか使うかもしれないから」という謎の呪縛に囚われていたのです。

そしてその「いつか」は来ない。
数十年経った今、やっと気づきました。
だから、捨てました。どっさりと。

捨ててもなお、まだモノはあります。大量に。
私の呪縛箱が送られるまでもなく、実家を出るまでの18年間、既に溜め続けたものがあったからです。
友達と休憩時間の度に交わした手紙、雑誌の付録、宝物のように使わずに溜めていたシール、好きだったアイドルが載っている雑誌の切り抜き、施設の面会の度にばあちゃんがくれた、手編みの服を着たキューピー人形、教科書、ノート、テストの答案、読書感想文、文集、習字の書、図工の作品、使用済みの歴代の筆箱、もはや着れない服、玩具、カセットテープ、絵本、漫画……。
枚挙にいとまはありません。

その中に、一冊の日記がありました。
確か、小学2年の頃に百貨店で購入した、初売りの福袋に入っていたものです。
表紙に小さな鍵がついていました。秘密の日記帳です。
私はそこに、大切な、でも人には知られたくないようなことを書こうと思いました。

最初は、どこそこに何を見つけたとか、何を隠したとか、そんなようなことを書いていたように思います。
でも、生来おしゃべりな私。〝秘密を守る〟とかできるわけがありません。親に隠れて果たした悪事を自ら武勇伝として語り、大目玉を食らうくらいです。
結局、その日記帳は引き出しの奥にしまい込まれることになりました。

けれども時が過ぎ、反抗期に差し掛かる頃には、その日記帳は、私にはなくてはならない存在になりました。
私の中にある、攻撃のこころを全て受け止めてくれるものだったからです。

絶対に言ってはいけない言葉や、怒り、恨み、憎しみ、秘めたる思い。
そういうものがこころに湧く度に、私は、文字にならない言葉(つまり殴り書き、いや描き)にしてそこに封じ込めてきました。
たいていは、親への怒り。中でも、父親に対する罵詈雑言は、凄まじいものがありました。

……あれ?
おかしいぞ。
私は父親っ子だったはず。父親の後を追いかけ回し、父親がいなくなると自分がいなくなるとさえ思っていたくらいなのに……。
確かに、母親やきょうだいや苦手なクラスメートや先生に対する悪口も記されてはいます。
が、圧倒的に父親への攻撃が多い。

どこかで記憶が書き換わってしまったのでしょうか。

実は、今回の実家滞在中、こういうことは、他にもありました。

私の海馬に残っている、最も古い記憶のひとつに、赤い耳をした犬の玩具があります。
犬の顔の下についている紐を引っ張ると、オルゴールが鳴り、音に合わせて犬の青い目玉が左右に動きます。
幼児の私は、その玩具が大好きで、飽きることなく引っ張って音楽を鳴らしていました。
そして、飽きることなく聴いたあの音楽が『ブラームスの子守歌』であることを、大学生くらいの時に知りました。
だから私は「初めてのクラシック音楽は〝ブラームスの子守歌〟」だと信じてきました。

今回、実家で、汚れまくったそれを見つけて、紐を引っ張ってみました。
何十年も引っ張っていなかった紐は固まり、鳴らしていなかった音は力強さを失ってはいましたが、ちゃんと鳴りました。
『赤とんぼ』が。

私は一体いつどこで、『ブラームスの子守歌』を聴いていたのでしょう。

『心を紡いで言葉にすれば』の第8回でも綴ったように、人間の記憶ほどあてにならないものはありません。
それなのに、その頼りない記憶で自分を作り上げる。
そうだとしたら、私が私だと思っているものは、本当に私の経験によって積み重ねてきたものなのでしょうか。

そんな、足元から自分が崩れていくような、自身の存在の不確かさを、初期の認知症の人たちは感じているのかもしれません。
やがてそれが少しずつ広がって、立っていられなくなる。
記憶が書き換わるだけでも怖いのに、記憶そのものがないのです。
それなのに、それがあったと言われても、もはや戸惑うしかできない。

でも、こうも考えます。

私の存在は、おそらく、私自身の記憶の中にあるのではないのかもしれません。
誰かの中で息づく私。それこそが、私自身なのではないかと。
もしそうだとしたら、恐れることなく、手放してもいいのかもしれません。そこに私は確かにいるのだから。

開かずの扉を開いて思う、晩秋の昼下がり。次週から始まる物語の導入として。

さて。ためになる(かもしれない)知識も一つ。
前述の〝全ての攻撃欲求を受け止めてくれた鍵付き日記〟の偉大さについて、心理学的に少し考えてみます。

皆さんも、一度くらいは名前を聞いたことがあると思われる、心理学と言えばの人、ジークムント・フロイト先生。
フロイトと言えば、人間のこころには、私たちが今ここで暮らすために用いている『意識』世界の他に、普段意識することはないけれど、ふとした瞬間に漏れ出て、私たちを混乱させたり不安に陥れたりする『前意識』と、自らは絶対にアクセスできない心の奥底に漂い、閂をかけ、閉じ込められた扉の向こうで、飛び出すタイミングを今か今かと待ちわびている『無意識』というものがある、というようなことを示した人です。

『無意識』は、様々な願望を持つ私たちを平穏な暮らしに適応させるために、なくてはならない防波堤のようなものですが、時に、人を破滅に追い込むほどの危険な要素を併せ持っています。
この『無意識』には、現実世界では叶うことのできない様々な願望が漂っているのですが、中でも強いものとして、性にまつわる衝動と攻撃にまつわる衝動が備わっているというのです。具体的な表現型は人によって異なりますが、フロイトは、この二つの衝動はすべての人間に備わっており、私たちは、この二大衝動(とりわけ性衝動)を解放し満たすために生きる、つまり、それらの存在こそが人間の生きる原動力になっている、としました。

だが、それらを全開にして生きるには、あまりに社会的にリスクが高い。
だから、わざわざ〝閉じ込めて〟いるのです。自覚できない段階で、アクセスできないところに。
一見すると矛盾するかのようなその行為を、何とかして実現させるため、人は、なんとかして現実に即した形でそれらを満たそうとするのだそうです。
これを『現実原則』と言います。

あの頃の私が、発散することのできない攻撃衝動を、日記の中に吐き出し、封じ込めたのは、まさに『現実原則』に則った正しい行為。
でもこれを実現するには、『超自我』と呼ばれる、その社会で生きるための様々なモラルや掟を内在化させ、『自我』と呼ばれる人格の主体(つまり、私そのもの)が成長しなければなりません。それらが育つのが、概ね思春期の頃なのです。

私が日記を攻撃欲求の捌け口として使いこなせるようになったのは、まさにその頃。
なるほど。理に適っています。
もしあの時、鍵付き日記がなかったら……。想像すると、ちょっと怖いです。暴発せずにいられたのは、ひとえに日記のおかげなのです。

ありがとう。鍵付き日記。

(by 大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

「要らないものは実家に送る」発言の衝撃、覚えています。「今は使わないけれど大事なもの」ではなく、ハッキリと「要らないもの」と言ったんですよ、峰歩さん! そして、「今住んでいる場所は仮住まいであって、自分にとってのホームはいまだに実家」なのだとも(当時一人暮らし)。だったらなおさらホームはキレイにしとかにゃいかんのでは? と頭に「?」が大量発生したものですが、当時の峰歩さんにとってご実家は「鍵付きの日記」だったのかも、と今わかった気になりました。自分の秘密を守ってくれる安全地帯、かつ、いつかは片付けなくてはいけないアンタッチャブルゾーン。「安全、安心」って、見えない何かを抱えているものなんですね。

次回からは新しい小説の連載が始まります、どうぞお楽しみに!

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