心を紡いで言葉にすれば 第15回:なんでそうなるの?

先週の『刺繍』第8話では、認知症の「私」は折れた自分の足のことを忘れて歩き回り、症状を悪化させています。

我が身に起こった病気や怪我の存在を忘れることは、別に認知症でなくでもあるかもしれません。ただそれが起こるのは、普通、それらが改善されている時に限られるのだと思います。
症状がある時は、痛みや苦しみが意識の前面にあり、到底忘れるなんてことはできないからです。
だけど、『刺繍』の中の「私」は、そうではありません。全く治っていないのに歩く。そしてその都度、「あれ?なんか痛い」と思う。でも、何故痛いのかを思い出せない。

理由がわからないものは、時に人を不安にさせます。

先々週の『心を紡いで言葉にすれば』第14回で、認知症の進行について「葉が一枚一枚落ちていくように」と表現しました。
実はこの言葉、ある映画の中で、認知症の主人公が発したものを言い換えたものでした。
主人公である老爺アンソニーがケアスタッフに「自分の葉が一枚ずつ落ちていくようだ……」と吐露し、涙する場面です。

その映画のタイトルは、『ファーザー』。
認知症患者の思いや混乱を患者そのものの視点に立って描き、第93回アカデミー賞の脚色賞と主演男優賞を受賞した作品です。

認知症を描いた映画は、これまでたくさんあったと思いますが、この作品のすごいところは、認知症患者の視点だけに立って、ただその日常を描いているところです。

と言っても、別に、監督や脚本家が認知症というわけでもなければ、ドキュメンタリーのように当事者の姿を映し出しているものでもありません。
視点(つまりカメラの視点)が認知症患者の主人公から見た世界である、というものです。
観客は、あたかも主人公になったかのように、目の前の人が誰かわからなくなり、ここがどこかわからなくなり、今がいつかわからなくなります。

まさに、鑑賞しているこの瞬間に〝当事者の視点に立つ〟ことができるわけです。
では、〝当事者の視点に立つ〟ことによって得られるものは、何でしょうか?

おそらくそれは、その人の心を追体験している(ような気になる)こと。それによって、その人を理解した(ように思える)こと。
そうだとすると、この映画を観たら認知症患者のこころを理解することができるかというと、それは違うかもしれません。

ただ、彼らが感じているであろうところの「どうしてこんなことに?」「私の頭に何が起こっているの?」というような〝わからない〟の一端を、垣間見ることはできるかもしれません。
事実、私はこの映画を観て、その〝混乱っぷり〟を知りました。ああ、こんなにも混沌として、不安で、わけがわからないのか、と。

客観的に一観客として見始めたはずなのに、しばらくすると、私自身、物語の時系列も、登場人物の顔も、今いる場所が何処でいつなのかという見当識も混乱し始めます。
そのうち「あれ? わたし今、ちょっとだけ寝ちゃった?」と自分を疑い、何か見落としたのかもしれないと、一層映画の中にのめり込みます。するとますますわからなくなるのです。

今がいつで、さっきのシーンは昨日の話なのか、それとも数十年前の話なのか。ここがどこで、目の前にいる人は誰なのか。娘と思うこの人は、いつの時代の娘なのか。あまりにも顔も形も変わりすぎるから、本当は娘などいないのではないか、とさえ思い始めます。

わかっているのはただ一つ。
主人公のアンソニーはアンソニーであるということだけ。
自分の顔は自分では見えないので、自分はいつもいつまでも自分のままです。だから余計にわからない。これが若い頃の話なのか、そうでないのかを。

私はこの作品を映画館ではなく、サブスクリプションで観たので、確認したいところだけ戻したりして、何度でも見返すことができました。
映画全体を見ていると訳がわからなくなるから、必要なところだけを戻して、確認しました。主人公の娘が誰かを自信をもって答えることができなかったから。そこだけははっきりさせておこう、と。
きっとそれは、『心を紡いで言葉にすれば』の第8回で紹介した『マルホランド・ドライブ』みたいなミステリー仕立ての謎ではなく、見返しさえすれば解ける謎だと思ったからです。

でも結局、わからなかった。
「おそらく、これが娘だな」という感覚は持てました。でも断定できない。
だから、もう一度だけ見返そうと思い、巻き戻し始めて、止めました。それは決して、面倒だとか飽きたとかではなく。

見返すのを止めたのは、もう、何が答えかわからないほうがいいような気がしたからです。
この混乱こそが、主人公である彼の、アンソニーの日常なのだと思ったのです。

そうだ。
この作品は、認知症患者の混乱を疑似体験するものなのだ。
わからないことをわかる。
そのことに気づけたのだからもういいや、と思ったのです。

ところが、一緒に観た家族は、そうは思っていないようでした。
「え?どういうこと?」「これは誰?」「娘は同居してるの?」「これはいつの話?」
たくさんのハテナを、何度も見直すことで解消しようとします。
結局、計15回鑑賞したようです。ちなみに、上映時間は97分です。それが15回なので、1455分。24時間25分。
まる一日中、頭の中はずっと『ファーザー』だったのかと思うと、それはそれで感心します。
まあ、15回全部最初から最後まで見直したわけではなく、部分的な巻き戻しだったりもしたみたいだけど。

鑑賞後、私は家族に問いました。「で、結局、答えは見つかったの?」
家族は「ううん。どうしてもわからないところが残った」と不満そうです。
だから言いました。「そういうふうに作ってるんだから、何回見てもわからないんだよ」
そこでやっと家族は、わからないのをわかることを諦めたようです。

そんな家族を見て、ふと思いました。ああ、これは帰属の心理だ、と。
家族は知りたいのです。?の答えを。物事の理由を。

何かが起こった時、人は、なぜそれが起こったのか、どうしてそうなったのかを知りたいと思います。
物事の原因を推理する人間の心理を、『帰属』(または原因帰属)と言います。
因果関係を明らかにする、こころのメカニズム。

毎日どこかで起こる様々な事件や事故の報道に触れ、「なんでこんなことに?」と関心を寄せるとき、私たちはその理由を知りたくなる。
ニュースやインターネットや新聞雑誌、あるいは誰かのコメントで、事のいきさつを知り、ふむふむと頷き、「なるほど」と膝を打つ。納得できないときは、さらなる情報を収集する。
そして、必ずどこかに原因を押しつける。

『ファーザー』を観て、私の家族はきっと、何故こう描かれているのかを知りたかったのでしょう。あるいは、何回観ても腹落ちしない理由を探ろうとしたのかもしれません。
「これがどうしてこうなった?」「これとあれではどっちが昔の話?」「で一体、本当の娘はどれ?」
いろんなクエスチョンマークを腹落ちさせたくて、繰り返し鑑賞した。
わからなかったのは、きっと自分が何かを見落としたからだ、と思って。

物事の因果関係を帰結させることは、それ自体、悪いことではありません。
ただ、帰属に関する理論では、以下のような誤りや歪みがあることが明らかにされています。

①自分の身に起こったことについては、運とか他者とか〝外側の要因〟に帰属しがちであるのに対し、他者の身に起こったことについては、その人自身の能力とか性格のような〝内側の要因〟に帰属しがちである

②自分が試験に合格したとか宝くじに当たったというような成功した場合は「努力したから」とか「日頃の行いが良いから」というように自分の手柄にするのに対し、自分が試験に落ちたとか宝くじに当たらなかったというような失敗した場合は「ライバルが強すぎた」とか「店員が選んだから」というように他者や運の責任にする

③自分以外の誰かの身に起こった災難に対して、実際とは異なるにもかかわらず、「そんなところにいるのが悪い」などと過度にその人のせいにする

④実際には偶然生じた出来事でも、自分の意図や能力のおかげであると思う

よく「俺、晴れ男だから」とか「私が引くと必ず当たる」という言葉を聞くことがあります。
天気をコントロールできるのは卑弥呼や安倍晴明だけだし、当たりをコントロールできるのはパチンコ屋とキャッツアイの泪さんだけです。

私たちは、因果関係に執着した結果、上述のように、ありもしない原因を捏造さえする。

そもそも、なぜ人は、理由を知りたいと思うのだろう。
私たちは、理由なく人を好きになるし、理由なく人を嫌いにもなる。
理由なく何かに熱中するし、理由なく簡単に何かを手放す。
なにもかも、理由づくしの行動であると考えるのは、ある種の幻想とも言えます。
事実、おそらく皆一度くらい「なんでそうなるの?」という問いに、「だってそういうものだから」と答えたことはあるのではないでしょうか。

無理に腹落ちさせなくてもいいのに、知りたい。

そこにはきっと、原因を探り、問題を突き止め、未来に備えたいという心理があるのかもしれません。あるいは、世の中には、予測不能で制御不能でなすがままにしかならない未来があるということを認めたくなくて、因果関係を明確にすることで、それらさえコントロールできると思いたいからなのかもしれない。

理由なく振舞うのに、その理由をどこかに置こうとする。
理由なんてないのに、その理由に納得したい。
だってわからないのは、不安だから。

そんな不安に囚われて堂々巡りしてしまいそうなときは、昭和の時代に一世を風靡したあの人みたいに「なんでそうなるの?」と言いながら〝飛び出し坊や(注)〟よろしくジャンプしてみるのはどうでしょう。

注)〝飛び出し坊や〟とは、子どもが道路に飛び出して事故に遭わないように、車の運転手に注意喚起する看板に描かれている子どものこと。↓こんなのです。

(by 大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

大日向峰歩作『心を紡いで言葉にすれば』第15話、いかがでしたでしょう。
本文中で取り上げられた、アンソニー・ホプキンスの名演技も話題の映画『ファーザー』、ご覧になりましたか。私は気になりつつ見逃しましたが、Amazonプライムビデオ (字幕版です。吹替え版はこちら)などサブスクで観られるようなので気になってきました。
なんでそうなるの? とジャンプの準備をして鑑賞せねば。

さて、今時分、よほど若い方でない限り、認知症が他人事とは思えないのではないでしょうか。認知症にならない方法を探るだけでなく、なった時どうするかを考えるのが現実的、とベストセラー『おひとりさまの老後』の著者・上野千鶴子さんもおっしゃっていますが本当にそう思います。自分がならなくても、高齢化に伴い認知症者の比率は必ず増えます。そこをディストピアではなく、意味不明だけれどゆるく穏やかな世界にする方法・テクノロジーは何だろうかとよく考えますが、きっとそこで心理学は超重要な役目を果たすでしょう! 次回もどうぞお楽しみに。

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