【第三話】
母が、盗まれてなどいない通帳を「盗まれた」と言うために警察に行ったということは、やはりケアマネージャーを介して、わたしは、後日知ることになった。
自分で飲む薬の管理ができない母のため、家に他人が入ることを極力嫌がる母を説得し、週に一度、訪問看護をお願いしていた。
その看護スタッフが、「通帳が盗まれたので、困っている。警察にも行った」と言う母を心配して、ケアマネージャーに連絡し、事が発覚した。
わたしは母に電話した。
「お母さん、警察、行ったの?」
「……うん。だって、通帳盗られたから」
「あれ? 確かさあ、伊藤さんと一緒に探して、見つかったんじゃなかったっけ?」
「え? 見つかってないよ。だって、電器屋さんに盗られたもん、たぶん」
「うーん。電器屋さんが帰った後さあ、伊藤さんと一緒に探して、チラシの間にあったんじゃなかったっけ?」
「……そうだった?」
「見つかったから、もう警察には行かなくていいねって言ったよね? なんで行ったの?」
「泥棒に遭ったから、警察に行ったの」
もう、どれほど否定しても、母の中で泥棒は実在し、盗難被害は消しようのない真実になってしまった。それを否定すればするほど頑なになっていく母を前に、こちらまで頑なになってしまうわけにはいかない。小さく息を吐いた。
「通帳、あったと思ったけどなあ……。わたしの勘違いかな?」
「……あったの? どこに?」
「だから、チラシの間に」
「……そうだった?」
「もういいや。ところで、一人で行ったの?」
「ううん。お隣にお願いして、連れて行ってもらったの」
「え? お隣にお世話になったの?」
「うん。だってお母さん、警察の場所、よくわからないんだもん」
「そうなんだ……。それは申し訳ないことをしたね。ご迷惑をおかけして」
「うん。お世話になったの。だから、アンタからもお礼を言っておいてね」
他人に迷惑をかけたら、お詫びして、お礼を言わなければならない。
子どもの頃からそう言い聞かされてきた。
でも、最大の迷惑を被ったのは、親切心で財テクを教示したのに、あらぬ濡れ衣を着せられ、盗人扱いを受けた電器屋だと思うのだが、今の母にはその破綻に気づく論理は持ち合わせていない。
母が放ったでたらめのせいで、電器屋に変な嫌疑をかけられたら大変だ。
母との電話を切った後、わたしは慌てて、警察に同行してくれた隣の老夫婦に電話した。近年、母の様子が変になってきたので、念のため互いの連絡先を交換していたことが役立った。
お隣の話によると、どうやら、警察も途中から母の話の破綻に気づき、傾聴だけして、被害届などは作成していないそうだ。
きっと、こんな老人の妄想相談は珍しくないのかもしれない。
隣のご夫婦も、最初に母が飛び込んできたときには、盗難被害に遭ったのだと思い、慌てて警察に連れて行ったが、現地で母の話をよくよく聴いてみるとあまりにも荒唐無稽だったので、これはちょっと違うな、と思ったのだそうだ。
けれども、母の認知に支障が出ていることを、遠く離れた娘にわざわざ電話するのも告げ口みたいで忍びなく、そのままにしていた、とのことだった。
「奥さんは、自分のせいで盗られちゃったと思い込んでて、自分で処理しようと思って、警察に行こうとしたんだと思うわ。車がないから、私たちを頼って来られたけれど、離れた所に住んでるサチコさんに迷惑をかけたくなくて、一人で動いたんだと思う。だから、あんまり叱らないであげてね。一所懸命やったんだから、褒めてやって」
褒める、ねえ……。
思えば、わたしは母に褒められたことがない。
昔は、母の日の前になると学校で、小学生のお小遣いでも買える金額のブローチが販売された。赤い小さな造花のカーネーションの下に〝おかあさん、ありがとう〟という札がついている安っぽいものだ。それでも、ほとんどの子どもが、ほぼ強制的にそれを買わされ、それぞれの母に贈っていた。
今にして思えば、学校とどこかの団体との癒着のつけを、小学生たちに無理矢理負わせていた悪しき慣習だと思うのだが、その頃のわたしは、そんなふうに思いもせず、母の喜ぶ顔を見たい一心で、毎月のお小遣いの半分の金額のそれを買い、母にプレゼントした。
でも母からは、「カーネーションは好きじゃない」と突き返された。
褒めない母に褒められたくて、あの頃のわたしは、いろんなお手伝いをした。でも母は褒めるどころか、小さなミスを見つけてはダメ出しした。
テストで学年最高点を取っても、満点じゃないと責められた。
毎日絵日記を書くよう言われた。母の言うように毎日書いたら、母は褒めてくれると思った。
だけど、子どもの頃の日常なんて特に変化があるわけではない。毎日毎日、書くことはほぼ同じ。友達の誰かとどこそこの公園で遊んだ。そんな判で付いたみたいな文章を書いていたら、誰とどんな遊びをしたのかを詳細に書くよう促され、遊んだ友達の名前を全部書き上げたら、字数稼ぎのズルをするなと叱られた。
母は、小学校の教師だった。
生まれる前から彼のだけ、母自ら名前を用意して、対面することを心待ちにした双子の弟には、どこまでも母の顔を見せていたけれど、わたしには、家でも先生のままだった。
叱られながら母に提出した絵日記には、ピンクのソフトペンで添削がなされていた。
まるで家にも教師がいるようで息苦しかっただろうに、その頃のわたしは、その添削が母との交換日記のようで嬉しかった。
母は忙しかった。いつも時間に追われていた。
よそのうちのお母さんみたいに、お菓子を食べながら、面と向かって今日の出来事を聞いてくれたりはしなかった。
漸く近年、ブラック企業以上のブラックな労働環境が問題視され、その残業時間の長さに驚愕されるけれど、当時の小学校教師の労働環境もなかなかのものだった。
今みたいに残業は多くなかったものの、その代わり、持ち帰りの仕事が異様に多かった。
御多分に洩れず、母もそうだった。
毎日、答案用紙でパンパンに膨れ上がり、腕がちぎれそうなくらい重い鞄を二つと、スーパーの買い物袋をぶら下げて帰ってきた。急いで夕飯を作り、子どもに食べさせ、後片付けをした後、テストの採点、課題の添削をして、学級通信を書き、研究授業の授業計画を作っていた。学期末になると、そこに通知表や成績簿の作成が加わった。
いつも時間が足りない母と、そんな母に構ってほしいわたし。
当然、二つの欲求が満たされることはなかった。
わたしはごはんを食べるのが遅かったので、早く後片付けをしたい母からいつも怒られた。
怒りに任せた母に、食べている最中にも関わらず食卓の照明を消されたこともあった。
暗闇の中、既に冷えてしまった野菜炒めを無理矢理飲み込むときに感じた、込み上げてくるような吐き気は、何十年経った今でも、感覚として残っている……。
そんな昔のことを思い返して、今の母を責めたりする気は無論ない。だから、母のした行為を褒めなかったということでもない。
実際、そんなことは、深い記憶の奥底に沈んでいたのだから。
それが浮上したのは、呆けた母の今後を考えた時に、娘のわたしの傍で暮らすことが、母にとって、そしてわたしにとって、最善なのかを考えたからだ。
いずれ介護度が上がって施設に入ることになるにせよ、子が親と暮らし、世話をするのが当たり前とされる田舎で入所できるところは限られるし、今の段階では、何より母が納得しないだろう。とはいえ、今まで通りの形で母を一人で置くことは、難しい。
わたしや弟が一緒に暮らせないのであれば、父と建てたこの家で、母の一人暮らしを継続させるためにも、デイケアやヘルパーの回数をもっと増やして、気ままな母の生活に第三者の積極的介入が必須なのだけど、母はそれを悉く拒んだ。困っていることは何もない、今までと同じように一人で支障なく暮らしていけると、強く主張した。娘のわたしが手配したサービスを全て断り、誰も寄せ付けず、夫婦の城で、壊れながら一人静かに暮らしていくことを望んだ。
「姉ちゃんが望むように、あの家で今まで通り過ごさせてあげて。大丈夫よ」
実家から電車で5時間ほど離れたところに住む叔母が、わたしにそんな電話を度々よこしてきたのも、ちょうどその頃だった。
【第四話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『刺繍』第三話、いかがでしたでしょう。母と娘の関係。そして弟の存在。あたかも認知症という脳にかかった霧の中で手探りで把握する自分自身の現状のように、主人公を形作ってきた人間関係に少しずつ光があたり、うっすらと周囲が見えてくるのがサスペンスフル!? 次回もどうぞお楽しみに。
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