【第八話】
やっと家に帰ってくることができた。
どこも悪くないのに、ある日突然、病院に放り込まれて。
いったい私が何をしたっていうの?
腹が立つ! 無性に腹が立って仕方ない。
この間、あの子の姿が見えたような気がしたけれど、気のせいよね。だってあの子、遠くにいるんだもの。ここにいるわけないわ。
ところで私、どこに行ってたんだっけ。しばらく留守にしていたような気がするけれど、いったいどれくらいだったのかしら。
……あ。病院か。病院に行ってたんだわ。一年くらい?
うん。確かそうよ。でも何で?
どこか具合が悪かったのかしら。私、病気だったのかな。コレステロールの薬はずっと飲んでるけど、それかしら。
思い出そうとすると、頭がズーンと重くなって、わからなくなる。
私、バカになっちゃったのかしら。どうしよう。どうしたらいい?
……母さんみたいになるのかな。母さんが呆けちゃったのって、今の私くらい?
私って、今、いくつなんだっけ。七十…、いや、八十になったんだっけ。わかんなくなっちゃった。
最近、朝起きて鏡見てぎょっとするの。
あまりにも母さんに似てきたから。鏡の中にいるのは、母さんそのものなんだもの。
子どもの頃から似てるって、親戚のおばちゃんたちに言われてきたけれど、年取ってますます瓜二つになってきた気がする。婆ちゃんと母さんがそっくりだったように、私と母さんもそっくりで。血のつながりってどうしようもないのよね。嫌でも同じになっちゃうの。
……じゃあやっぱり、私も呆けちゃったのかな。もしかしてそうなのかな。だとしたら、どうしよう。怖い。どうしよう。
「お母さん。どう? 足の調子は」
「……あら? さっちゃん、どうしたの? 仕事は? お休み?」
「連休じゃない。だから、様子見に来たの。しばらくこっちにいるよ。足は? まだ痛い? 腫れは?」
「……足? お母さん、足なんかしたっけ? ああ。なんかちょっと腫れてるわね」
「うん。骨折れたからね」
「骨? 折れてるの?」
「そうよ」
「どこが? どこが折れてるの?」
「ここ。この、左足のね、甲のところ。薬指と小指の付け根の、この辺り。らしいよ」
「ふうん。そうなの。ここ、折れてるの。確かに、少し腫れてるね」
「痛みはないの?」
「うん。ちょっと痛いかな」
「歩ける? ていうか、歩いてるの?」
「歩いてるよ。だって歩けるもん」
「歩いちゃダメなんだよ」
「なんで?」
「骨がね、くっつかないから。せっかくくっつきかけたところに、力が入るでしょ。また割れちゃうのよ」
「ふうん。そうなの」
「ごはんは? ちゃんと食べてる?」
「誰かがなんか、いろいろ置いてってくれたの。それ食べてる」
「宅配のお弁当?」
「……ああ。そうかな。そういうのも、食べた気がする」
「昨日は? これ、容器じゃないの?」
「ああ、それ。うん、そうよ。お母さん、洗っておいたの」
「どこで?」
「流し」
「流しまで歩いたの?」
「うん、そうよ。いけないの?」
「うーん。歩くとね、なかなか治んないから」
「治るって何? お母さん、どこも悪くないわよ」
思っていた以上に、母の記憶は短かった。今、話した内容を、次の瞬間、忘れる。
その瞬間だけ切り取れば、会話は成立しているように見える。でも、ものの5分もやり取りすれば、それが破綻していることに気づく。
断片的な内容が無限にループする会話は、ふとした瞬間に、シフトする。
例えば、こんな感じで。
「どこも悪くないんじゃないよ。お母さん、骨折してるんだよね」
「そうなの。……骨を折ったのなんて、子どもの頃以来かもしれないわ。お母さん、子どもの頃はお転婆で、よく怪我してたのよ。小学生の頃かしら? 腕の骨をね、折ったことがあったわ。三角のやつで吊ったまま、缶蹴りしてたのよねえ」
そして今度は、「子どもの頃はお転婆で、腕の骨を折った」という話が、その後延々と繰り返される。聞いている側は、その都度、あたかも初めて聞いたかのような素振りをしなければならない。
同じ話を繰り返すことは、認知症の人じゃなくてもある。
その内容が、その時のその人にとって、重要だったり、感動的だったり、誰かに言いたかったりした時、人は、同じ話を何度もする。
相手に念押ししたいときを除いて、本来それは、相手を替えてするものだけど、誰に話をしたのかを人はつい忘れてしまいがちで、けれども話したい気持ちは抑えられず、誰彼構わず話し続ける。
認知症のそれとの違いは、繰り返すまでの時間の幅と、「前にそれ聞いた」という相手の反応に対する敏感さやその後の行動修正の有無だろう。聞き手のほんの僅かな眉間の皺や、好奇心を失った眼の輝きの鈍り、乾いた微笑みによって、人は自分の行為の反復性に気づき、失った自分の記憶を恥じ、詫びる。
一方、認知症の人の無限の会話のループは、こうした相手の反応には無頓着だ。
たとえ相手が声に出して「聞いたよ、それ」と伝えたところで、全く怯むことなく、再び繰り返される。加えてそれは、昨日とか、先週とか、数カ月前というような過去ではなく、ほんの数分、数秒前の過去だ。カップ麺にお湯を注いで待つ間、同じ話を数十回聞くなんてことはざらで、だから疲れる。それは少しずつ、聞く側の忍耐の皮を剥いでいく。ヒリヒリするまで剝かれて我慢の限界が来た時、「もう何十回も聞いたから」と吐き捨てる。でも、認知症の人には、その意味がわからない。彼らにとってその話をするのは初めてなのだから。あるいは、「うん、そうだね」と、ただ肯定してもらいたいだけ、なのだから。
不安なとき、人は、同じことをぐるぐる考える。
例えばガスの火を消したか確信が持てないとき、そのことばかり考えてどんどん不安が肥大化し、いつの間にか家が火だるまになっている姿を想像する。妄想の中で、一度火だるまの家を見てしまうと、そこから目を背けることができなくなる。それがたとえ仕事中だろうと、運転中だろうと、美味しい食事を食べている時だろうと、映画や小説の物語の中に没入している時だろうと、ものすごく気持ちいいセックスをしている時だろうと、いてもたってもいられなくなる。いったんそうなると、この目で火が消えていることをちゃんと確認するまで、その思いに囚われ、逃れられなくなる。
認知症の人が、僅かな時間の中で、同じ話ばかり繰り返すのは、刻一刻と薄らいで曖昧になっていく思考や記憶のエピソードが、果たして本当にあったことなのか、自分の理解が間違っていないのか、誰かに話して確認したいからなのかもしれない。確認するまでは、記憶に囚われ、動けなくなるのだ。そして、悲しいかな、記憶から解き放たれ自由になるためにしたその確認行為さえも、次の瞬間忘れてしまうので、永遠に記憶の囚われ人になってしまうのだろう。
だから、「同じ話ばかりするな」と責めてはいけない。「何度も聞いた」と詰ってはダメなのだ。
わかっている。
一番怖いのも、一番不安なのも、一番悲しいのも、一番申し訳ないと思っているのも、きっと彼らなのだから。
けれど、人と真摯に向き合おうとする人ほど、手垢のついたその告白を前に、あたかも自分が透明になって、何をも受け止めず、何にも染まらず、ただ揺蕩うだけの存在になることは難しい。誠実に彼らの記憶を正し、嘘つくことなく既知の事実を伝える。そして彼らを追い詰める。追い詰められた鼠が猫を噛むように、力の限り彼らは反撃する。言葉の限りを尽くして悪態を吐く。支えられたその手を払いのける。その眼には敵意や失意が滲む。愛しているのに。認知症の周りの人間関係が、時に切なく、時に苦しく、やりきれなくなるのは、そこに悪意がないからだ。記憶をなくしてしまう側も、記憶から消される側も、互いを騙し、見下し、傷つけることなど望んでいない。ただ想っている。「わかって。受け止めて」と「しっかりして。行かないで」の想いが、縺れて解けない。
【第九話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『刺繍』第八話、いかがでしたでしょう。
同じことをぐるぐる考えてしまう、時には人との会話で口に出してしまう、などは誰もが経験することでしょうが、ちょっとおかしい、病的だ、と感じさせるボーダーラインってどこなんでしょう。自分で頭の中の思考を客観的にトレースし、他のこととは明らかに違う「特異な反復」を発見することが、私にはあります。自分のクセやアイデンティティを発見する場合もあれば、「これ、何か変」と感じることも正直あります。みなさまはどうでしょうか? それが認知機能低下の「芽」かと疑い始めると、かなりの幼少期に始まる気がして怖いですね。認知症の始まりではないにしても、認知症になった時のあり方を暗示するようで。人に対して無関心に適当に受け流すことの難しい主人公「さっちゃん」とその母のあり方はどうなっていくのか、次回もどうぞお楽しみに。
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