【第十一話】
実家での母との二人暮らしは、2週間ほどで終わった。連休明け、母はケアマネージャーの勧める老健に入った。
入所に際し、「お義母さん、歩くの大変だし、さっちゃんも帰り、楽できるじゃない」と、夫が車で来てくれた。これで、3ヶ月は老健で母を看てもらえる。その間に、この先に母が過ごせる場所を探さなくてはならない。
「お義母さんにうちに来てもらったら?」
夫が言う。わたしはにべもなく即答する。
「それは無理」
「なんで? 僕は平気だよ」
「前にも言ったけど、母とは暮らせない」
「でも、この1ヶ月、一緒に暮らしてたじゃないか」
「……1ヶ月? わたしが一緒にいたのは2週間よ。それが限界」
「何言ってんだよ。骨折して入院してたとき、お母さんから何度も出たいって言われて出しちゃって、そこからずっとお前が、最初の2週間はこっちと行ったり来たりしながら、後の2週間は実家に戻って看てただろ?」
「……何言ってるの? 出しちゃったのは、タツヤでしょ。弟。わたしは反対したのに」
「……あのさ、こないだも言ってたけど、お前には弟なんていないよ。タツヤってなんだよ、それ」
「ちょっと! 本気で怒るよ」
「いやいや。こないだから変なこと言うなって思ってたんだよ。お前は一人っ子。弟はいない。ケアマネのアドバイスを蹴って、お母さんを退院させたのはお前。確かに、あの頃のお前、ちょっと変だったけどさ。なんか他人行儀というか。お前がお母さんを実家に連れ帰ってきたんだよ、弟じゃないよ。っていうかなんだよ、それ」
こめかみが締め付けられるように頭が痛い。胸が詰まって息ができない。
わたしが一人っ子?
このようなやり取りを随分前に誰かと交わした気がする。
あなたはサチコ。タツヤじゃない。
記憶の奥に沈んでいた呪文のような言葉が、心に湧いてくる。
「前から、独り言が多いなあって思ってたよ。風呂入ってるときとか。誰と話してるんかな?って。……お前、ちょっと疲れてるんじないか。お義母さんの今後のことは、もう少し経ってから考えよう」
母から褒められたかった。
何もしないどころか、姿形も見えない弟を、母は無条件で褒めた。
タツヤはいい子。タツヤはすごい。お母さんはタツヤが大好き。
どれも、わたしには浴びせられない言葉だった。わたしなんて生まれてこなければよかったと、いつも自分を責めた。もしここにいるのがわたしじゃなくて、タツヤだったら。
母は息子が欲しかったのだ。3年前に失った愛息の代わりになる息子を。
だから、父に「次に生まれる子はお前の好きな名前を付けろ」と言われたときも、男の子の名前しか考えなかった。
「せっかく、タツヤなんて素敵な名前を考えたのに、生まれてきたら女の子だったから。考えてなかったのよ、女の子の名前なんて」
母にそう言われた時、わたしはどう思ったのだろうか。
もう思い出せない。たぶんその頃から、わたしはタツヤという名の弟と、心の中でやり取りするようになったのだと思う。やがてタツヤは、心の中から飛び出して、わたしの代わりに、母の腕の中へ飛び込むようになった。母は嬉しそうだった。わたしは、それでいいのだと自分を捨てた。
小学校へ入る時、母が赤いランドセルを買ってきた。わたしは、「僕は男の子だから、黒いランドセルじゃなきゃ嫌だ」と泣いた。それを見て、父が驚き、母は震えた。
それから母は、「あなたはサチコ。タツヤじゃない」と言い続けた。あたかもそれは、催眠のように、わたしの心に鍵をかけた。鍵のせいで、心からタツヤが飛び出してくることはなくなったけれど、心の中にはタツヤがいる。タツヤはときどきわたしに語りかける。
(僕だったら、こうするよ。きっとお母さんが喜ぶよ)
わたしは、その声に導かれるままに行動した。
きっと、男の子ならこうしたはず。男の子は、こういう時に泣いちゃいけない。怖がっちゃいけない。わたしの行動の基準は、「女である自分を捨てること」であり、多くの女性が選ぶ道に敢えて背を向けて生きてきた。
そんなわたしが結婚できたのは、子を持つことのできるタイムリミットをギリギリ超えるくらいの歳だった。結婚の報告をすると、みんな「子が欲しいなら、今すぐ不妊治療を」と助言してくれた。結婚の次は出産。そんな考えが、今なお広く世間に蔓延っているのを痛感した。
誰かが言った。
女には、母と娘という二種類があるのだと。
母はおろか、娘にもなりきれない者がいることを、人はどう思うのだろうか。
そんな女が、母になれるのは到底無理だ。結婚して母になるという、ごく自然に抱かれる世間の価値観に、わたしはどうやっても染まることができない。歳の離れた、親戚の叔父さんのような夫といると、自分が女とか男とかにこだわっているのがばかばかしく思えた。ただ、わたしをわたしとして受け入れてくれるこの人が、わたしの命を繋いでくれた。
わたしが母と暮らす?
わたしではない誰かを愛する母を叱責し、拒否するわたしを、彼に見られたくなかった。呆けた母を愛せない女の中に、夫は何を見るのだろうか。わたしは、母を家の近くのホームに入れることに決めた。
【第十二話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『刺繍』第十一話、いかがでしたでしょう。
夫のハッキリした指摘に、「わたし」ことサチコが思い出したのは、タツヤなんていないこと。自分の一部がごっそり欠落し、底も見えない深い穴があるような感覚にぞくりとします。でも、タツヤと呼びならわし、言い聞かせたその「穴」だって自分の一部。母への気持ち、正のものも負のものも、その中にたくさん詰まっている。ただの何もない空間ではないはずのタツヤは消えていくのか、それとも!?
次回もどうぞお楽しみに。
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