【第三話】
更年期はまさに〝喪〟だ。
最近は、男性にも更年期があると言われているけれど、長い間、更年期は女にのみ課せられた〝自分の性を失う儀式〟とされてきた。子を孕み、産み落とす使命を手放すとき、女の〝死〟が訪れる。生物学的な女としての死。たとえ閉経しても、女が女であることに違いはない。
確かにそうだ。
でもそれは、一度でも妊娠出産したことがある者が言えることだ。女として産み落とされたのに、その使命を全うしなかった者は、ずっとずっと惑いの中にいる。
好き好んで女に生まれたわけでもない。
子を持つ選択をする以前から、子を持つ準備を整えられる。
月に一度来る生理が、いかに面倒で、いかに気重で、いかに苦痛に満ちたものなのかを、当事者以外は知らない。いや。かつての当事者は知っていたはずなのに、喉元過ぎれば忘れて、時に配慮のない一言を吐く。使いもしない装備を押しつけられ、あらゆる犠牲を払いながら必死で保持した挙句、徒労に終わるこの虚無感。そして最後、自動的に身に付けられた装備を剝がす時、その身を削られる。怒りによる感情の支配、滝のように流れる汗、体調不良、気分の低迷、不眠。その上、生活の糧を奪われるなんて。
さおりは戸惑いながらも、今の彼女にとっては間違いなく重荷になる、六日間のツアーガイドを引き受けた。それを引き受けた理由は、彼女を導いてくれた恩人に報いたかったからだ。その人は、闘病生活の果てに、思いの詰まった山域を長年作り続けた雑誌の読者たちと歩きたいと願った。そしてガイド役に、自分が目をかけ育てたさおりを抜擢した。その出発の朝、予想外の生理が来たのだ。
ツアー客の中で急に生理が来る人もいるので、もしもの時のために、いくらか生理用品は持参していた。こういう細やかな配慮は、男性ガイドにはできない。
体力でも筋力でも敵わない彼らを凌駕することのできる唯一の武器。
男には、山で生理になった時の女の絶望を想像することはできまい。いつ来るかわからないそれのために、嵩張る生理用品をザックに詰める苛立ちを。
知らない女性客のために、さおりはそれを肩代わりする。「大丈夫。もしよかったら使って」と差し出し、「辛かったら気にせず、いつでも言って」と気遣う。それは頼りないけれど、気休めにはなる。だから、自分の生理周期とは無関係に、さおりはそれらをザックに入れていた。
でも、自身の生理に対してはそうはいかない。誰もさおりを気遣ってはくれない。
だから、周期を考慮し、明らかに来ると予想される日の前後数日間は山行を避けた。どうしてもずらせそうにないときには、ピルを服用した。けれども、来たり来なかったりする、気まぐれな最近のそれに対して、さおりはあまりにも無防備だった。
(消臭袋、まだあったっけ?)
大きな山小屋なら生理用品を捨てられるゴミ箱もあるが、基本、山小屋にはそんなものはなく、バイオ分解できないものは持ち帰らねばならない。その結果、山にいる間ずっと、経血で沁みた使用済みの生理用品が放つ独特な悪臭と一緒に歩かなければならない。その苦行を少しでも和らげることができるのが、消臭袋なのだ。
(山で生理なんて。何の罰ゲームよ……)
慌てて下着を専用のものに履き替えて着替えの中にも加え、かろうじて二枚残っていた消臭袋と数枚の色付きレジ袋と追加分の生理用品を詰め込み、家を飛び出した。
(この列車に乗り遅れたら次は一時間後。間に合わなくなる)
そうはさせまいと、さおりは、久しぶりにハイパワーで若い頃に究めた早歩きをした。
気持ちは前のめりでも、背中の荷物が足枷となって出力は空回りする。足が縺れて跨線協の階段で転けそうになり、ぐいっと踏ん張ったら、階段の段差で脛を打った。痛む脛と心を脇に置いて駅へと急いだ。その甲斐あって、どうにか列車に間に合った。
ホッとしたら、例のごとく汗が噴き出てきた。
既に脇の下はしっとりと汗を掻いていた。汗染みにならないよう、両手でつり革を持つと肘を張り、脇の下に服地がくっつかないようにした。少しでも汗が布に移る時間を先送りしたかった。
汗が引くのが先か、汗が布地に付くのが先か。
これは競争だ。
放熱する部位を増やし、前者に軍配が上がることを願う。背中のザックは足元に下ろし、両脚で挟んで邪魔にならないようにした。それでも、揺れる車内では、スマホに夢中のスーツ姿の若い男が、さおりのザックに躓いてバランスを失う瞬間があり、舌打ちをされた。頭を下げるさおりを、若い男は一瞥すると、滝のように汗を流すその女から一歩後ずさりした。
その眼は、俺にその汁を飛ばすなよ、言っていた。
【第四話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第三話、いかがでしたでしょう。
「女性ならではの」と評されがちな細やかな気遣いを忘れず仕事をしてきたさおりを労いたくなるのも束の間、今その「仕事」がピンチに。
「生理中の女子はこれを酷使してはならない」という条文とともに「生理休暇」なんてものが存在するとは聞きますが、実際使われている話となるとまったく聞かず、山岳ガイドという仕事にも適用されなそうな……? ましてさおりを深く悩ませるのは特別でかわりのきかない今日のこと、そして今後ずっとのこと。月に数日病気に苦しむような状況が終わると今度は常時病気に突入とは、ゲームで言うとハードモード!? さおりの怒りと不安と、ひとまず今日の首尾にハラハラドキドキしつつ、次回もどうぞお楽しみに。
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