潮時 第十五話

ワイキキビーチに佇むデューク・カハナモク

【第十五話】

教室から出た後も、良子はずっとモヤモヤしていた。

(自分たちと同じデザインを買い直せ、だなんて。年下のくせに生意気な。なんで私が、そんなことしなきゃいけないのよ)

確かに良子は、デザイン違いの葉月たちのドレスがいいなと思ったことはあった。
でもそれはあくまでも、あの肩を出すドレスを強制的に買わされたことへの不満であって、決してそれが欲しいと思ったわけではなかった。

(ていうか、あの柄が嫌なのよ)

おそらくそれは言いがかりで、きっと新しいドレスをいくら買っても、満足することはないこともわかっていた。
良子が本当に変えたいものは、ドレスじゃなくて、己の身体だ。
年老いて、みずみずしさを失った、張りのない肌。重力に従って項垂れるバスト。

気づいていた。
でも、認めたくなかった。
新しくドレスを買えば、違う自分に会えると思いたかったのだ。

(そもそも、あの子はどうしてあんなに、はっきりとものを言うんだろう……。遠慮ってものを知らないのよね)

メンバーの中で、葉月だけ母ではない。ママ友の世界を知らずに生きてきた。
そのせいだろうか。ママ友のつきあいでは必須の処世術である、曖昧さやぼかし表現を使わず、何でもずけずけと言い、白黒はっきりさせたがる。
確かに、それが気持ち良い時もある。でも、馴染まないのだ。私たちに。ここに。

子どもを人質にされたような特殊な社会で、母親たちは、できるだけ敵を作らないように生きてきた。波風が立つようなことは避け、最初から揉めそうなことは、揉める前に総意の取り決めを作った。
そうして、公平で、協調的で、思いやりのある輪を保ってきた。
白黒はっきりさせず曖昧なまま、その場の空気でなんとなく決める。多数派であることが最も幸福であると信じて。
長年身を置くそうした世界の中で、母親たちは、体の芯までそのやり方を沁み込ませ、やがて母として身を置く場が無くなっても、それを踏襲し続ける。

良子にはもう人質として差し出すような子どもはいない。娘は成長し、自分の足で立ち、我が身を守る力を備えた。
そもそも、ここで繋がるみんなは、ママ友などではない。
だけど、沁みついたやり方を変えることができない。
誰かのママになる前、良子は葉月だった。
言いたいことを言える女だった。でもそんな自分を封印したのだ。娘を守るために。

葉月は、嫌なものは嫌と言う。やりたいことはやりたいと言う。
そこに、他者の同意は求めない。たった一人でも構わないという凄みのような、凛とした強さがある。自分という核がある。無暗に多数派に従わないぞ、という意志がある。

「フラダンスは群舞なのよ。一人で踊るんじゃない。協調できないなら去ればいいのに」

悶々としたままエレベーターを降りた後、少し離れた駐車場までの道すがら、そう呟いたら、少し前を歩く文子に振り向かれた。

「え? 誰のこと?」

「あ、ごめん。聞こえた?」

「うん」

「葉月さんは、いつも言いたいこと言うわよね。若いからかしら」

そう取り繕ってウフフと笑った。

「うーん……。でも、ボレロとかドレスとか、一人で欲しがってるのは、良子さんだよ。協調性ないのは、良子さんじゃないの?」

良子は驚いて、手に持っていた車の鍵を落とした。

「とりあえずは、あの二着で踊ろうよ。じゃ、また来週ね」

文子と良子は、このメンバーで共に最年長だ。
同い年の文子ならわかってくれると思っていた。
あのドレスが、〝私たち〟にとって、どれほどハードルが高いのかを。
ただデザインだけの問題ではないのだ。もちろん、着心地の問題でもない。
あのドレスを着る度に、思い知らされるのだ。歳をとったことを。
自分はもうおばあさんなのだ。目を背けたくなるようなその事実を飲み込んで、私がどんな思いであのドレスを身に着けているのかを。

(なんであっち側なのよ、文子さん)

車に乗ってからも、嫉妬のような、不安のような、歯痒さのような、モヤモヤした思いに囚われていた。
もう潮時なのかもしれない。
確かに最近では、振りを覚えるのも難しくなってきた。家から三十分の道のりを運転するのもしんどくなってきた。あのドレスを着こなす自信も勇気もない。

何より、心通う仲間がここには居ない。
そして気が付いたら、縁石に当たっていた。

次のレッスンでもその次のレッスンでも、あたかもそんな出来事はなかったかのように、誰の口からも、ドレスの話もボレロの話も一切出なかった。
実際、あんなに必死で覚えた振りだって、一週間経つと細部が失われ、それ以上の休みになるときれいさっぱり記憶から消えてしまうようなメンバーのことだ。本当に忘れてしまったのかもしれない。良子も、この件について蒸し返すのはやめた。これ以上、傷つきたくなかった。居場所を失いたくなかった。

「良子さんはいつもこんなに早いの? 私は今日当番だから」

あの事故から三週間後のレッスン。
文子は受付カウンターで、部屋の鍵とホワイトボード用のマーカー類と消毒セットを借り、二人で五階の部屋に向かう。

「うん。そうなの。車停められるか心配で」

「ここ、駐車場狭くて、すぐいっぱいになるからね」

「そうなのよ。第二駐車場は少し離れてるし、入口の鍵の受け取りが面倒でしょう。できれば第一に停めたくて。先週は第二になっちゃったから、今日はもっと早く来たの」

良子たちが利用している部屋は、メンバーの数に比べて広すぎる。
ボンちゃんのコネで安く借りられる施設で、鏡のある部屋がここしかなかったからだ。

その目当ての鏡は、教室の側面全体にあるわけではなく、広い部屋のほんの一部に取り付けられたもので、せっかく広い部屋なのに、良子たちはせせこましく鏡前の一所に群れて踊ることを余儀なくされていた。
その狭い鏡前をさらに狭くするように、良子たちが決して使うことのないアップライトピアノが備え付けられていて、鏡に向かって三人が横一列に並んだら、数人しか映らなかった。

そのため、順繰りに前後の列を交代するのだが、やれ「振りに自信がないから前に立って」だの、やれ「恥ずかしいから一番前は嫌」だのと、銘々が勝手なことを言うので、合理的に回転することは不可能で、結果的に十人いるメンバーのうち、安定して振りができる中ちゃんと比較的覚えが早い文子が、最前列に据え置かれ、残り一枠になんとなく葉月が入り込むことが多かった。

「これ以上、人が増えると困るよね」

文子がパウスカートに着替えながら、言った。

「ん? そうね。ますます鏡に映らなくなるしね」

「うん。こんなに広い部屋なのに、こんな小さな姿見の前にみんなでギュウギュウに集まって、バカみたい」

「スペースがもったいわよね」

「部屋が無駄に広いから、まだ入るとばかりに、先生はどんどん新しい人、入れちゃうし」

「そうなのよねえ。部屋は広くても、鏡は小さいのだから。今でさえ、鏡なんてほとんど見れないのに」

「先生はよく〝鏡に映る位置に移動して動きを確認して〟って言うけど、移動したところで見えないのよね。人が多すぎて。というか、鏡が小さすぎて」

「ホントね。先生は、それがわからないのかしら?」

「わからないんじゃない。生徒が増えた方が、月謝も増えるし。先生は生徒を増やしたいのよ」

「まあ、お子さんもお金かかる年頃だしねえ」

「もう、本当にこれ以上は勘弁してほしい。でもさ、さすがに私たちから〝もうこの部屋の定員いっぱいなので、これ以上新しい人を入れないで〟とは言えないよねえ……」

「言ってみましょうよ」

二人の世界に突然、誰かが口を挟んだ。
良子は、悪口を聴かれていたことにも動揺した。振り返ると、そこに葉月が立っていた。

【第十六話へ続く】

(作:大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

大日向峰歩作『潮時』第十三話、いかがでしたでしょう。「気に入らないドレスの色違いなんか要らない」という、もっともなような、望んでしている集団行動そのものを否定するような気持ち。それは「ハッキリ意見を言えなかった」ことが尾を引いたモヤモヤだった!? ハッキリ自己主張して良子をモヤモヤさせる葉月と一緒に先生にモノ申せるのか。というか、鍵を落としたり縁石に当たったり、大丈夫なんでしょうか。次回もどうぞお楽しみに。

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