潮時 第二十六話

【第二十六話】

「こちらへどうぞ」

山本は弥生を奥に招き、助手の一人に「お茶をお願いします」と言った。
そこは、他とはパーテーションで仕切られ、その中に、半ば無理矢理な感じで応接セットが置かれていた。

弥生は、何故呼び止められたのかわからなかった。
だがきっと、この女が自分から何かを聞き出そうとしているような気がして、警戒した。
余計なことは言うまい。後々面倒だ。でもその反面、夫が何故急に辞めることになったのか、その理由を知りたいような気もしていた。

「お呼び止めしちゃってごめんなさい。あ、お茶どうぞ。あんまり美味しくはないかもしれないけど」

山本はそう言うと、弥生に対峙する形で、この部屋では違和感を覚えるソファに腰かけ、助手が持ってきた、うっすら色のついたほぼ白湯のような茶を自ら一口すすった。

「いいえ」

弥生はそれには口を付けず、招き入れられた理由が告げられるのを待った。
だが、山本は湯飲みを持ったまま動かない。山本は山本で、弥生から「長い間、主人がお世話になりました」的な言葉が出てくるのを待っているようだった。

でも弥生はそれを言いたくなかった。

田辺のことだ。辞めるきっかけは、どうせ田辺自身にある。
弥生にも、田辺を擁護する気などはない。だけど、たとえどれだけ問題があったとしても、犯罪を起こしたわけでもないのであれば、黙って置いておいてくれたらいいのに。あと2年じゃないか。
そんな思いがあったのも事実だ。だから、たとえ表面的なものだとしても、感謝的な言葉をこの人たちに示したくなかったのだ。

沈黙のひととき。どちらが先に声を発するか。それは駆け引きのようでもあった。
負けたのは弥生だった。

「……あの、夫は何かしたんでしょうか?」

「え?」

「あの人、家では何も言わなくて……。急に辞めるなんて、きっと何か理由があったんだと思うんですけど」

「そうだったんですね……」

「何をしたんでしょう?」

「何も」

「えっ?」

「田辺先生は何もなさってません。何もしたくないみたいです」

「……何もしたくない?」

山本は寂しげに微笑み、天を見上げた後、向き直って弥生を見て言った。

「不躾なことをお尋ねして申し訳ないのですが、先生には働かなくてはならない理由、みたいなものがあったのでしょうか?」

「……あの、それはどういう?」

「あ、ごめんなさい。私は田辺先生とお会いしてからずっと、先生から〝働く意欲〟みたいなものを感じることができませんでした。そういう人はいますよ。別にどこの世界にでも。でも、なんだかんだ言っても、大学の教員は、学生と関わることが好きな人が多いんです。彼らから活力を貰うというか。もちろん、教育よりは研究のほうに重きを置く教員もいますが、失礼ながら、田辺先生からは、そのどちらにも熱を感じられなかったので……」

「はあ……」

「結局最後まで全てを拒否しておられた。それなのに、どうして働き続けたのか。お子さんも成人になられてるわけで、そんなに嫌ならもっと早く辞めてしまってもいいのに、って思ってました」

山本はそう言うとハッとした顔をしてバツが悪そうに微笑んだ。

「……あ、すみません。私は結婚してますが子どもがいないんですね。だからか、夫はある程度の歳になったら早々にリタイアして過ごしたいって言ってて。子を育てる責任もないので、ある程度の年齢になったらそれもいいかなって思ってるんです。仕事にやりがいも意欲もなく、働く理由もないのに、働くって辛いですからね。ましてや田辺さんは年齢も年齢ですし。なんでかなあって。そうなると、もう〝働かなきゃ理由〟があるとしか思えてなくて……」

「ああ……」

「でも、そうだとしたら、たとえ仕事が嫌でも自分から辞めるなんてなかなか言えないし、よくわからないんですよ。田辺先生の行動が」

「……あの人、自分から辞めるって言ったんですか?」

「はい。……えっ! 奥様にはそう仰ってなかったんですか?」

「まあ、突然〝辞めてきた〟って。それだけ」

「そうだったんですね……」

山本が弥生に向けるまなざしが変わったような気がした。そこには、明らかに同情の色が付与されていた。

弥生はそれを振り切るように、意を決して打ち明けた。

「うちには、働けない成人した息子がいまして、その子のためにも、自分が頑張れるところまでは働こうと思ったんじゃないでしょうか。何があって辞めるなんて言ったのかはわかりませんが、たぶん、あの人の限界を超えていたんでしょうね」

「なるほど……」

弥生は話してから、後悔に襲われた。余計なことを言った。そう思った。
そんな弥生の心を見透かすように、山本が言った。

「そうだったんですね……。だからかな。……あ、いえ。田辺先生からお聞き及びかもしれませんが、実は春休み前に、ある学生がちょっとした問題を起こしまして、ご両親をお呼び出しして、今後のこととか話し合いの場を設けたことがあったんですね。科会でそれについて報告共有していた時に、私、田辺先生からお叱りを受けたことがあったんです」

「叱る? 夫が先生を?」

「はい。いつもあまり積極的な発言をされないので、驚いたんですけど」

「はあ……。それで、夫は何て言ったのですか?」

「家族の問題は、家族の中でのみ話し合うべきで、部外者が関与することではない、と」

「へえ……」

「まあ、私たちもちょっと言い過ぎたというか……。そのお父様があまりにお子さんに無関心な様子だったので、ちょっと批判的なことを言ってしまったんですね。そしたら〝たった一度会ったぐらいの人間に何がわかるんだ〟と言って立腹されて……。〝その親の気持ちはその親にしかわからない。関心がないなんて、他人が判断することじゃない〟と。確かに、表面的にたとえどう見えたとしても、その内は違うかもしれませんよね。その学生のお父様だって、そのお子さんに対していろいろ考えることもあるのかもしれません。20年もその子の父親をしてきたのだから。それで、私たちも大いに反省したんです」

「そんなことが……」

「でもその時に、ふっと、もしかして田辺先生のご家庭にも何かご事情があるのかもしれないなって思いまして……」

「はあ」

「だから今日、奥様からお話うかがえて、腑に落ちました。田辺先生はずっと、息子さんのために働くことを選んでおられたのですね」

弥生は、なんだか腹の底が煮え立つような感覚に見舞われた。
既に冷えたお茶を一口含み、飲み込んだ時、それが怒りであるということに気づいた。

「たぶん、うちのはそういうんじゃないと思いますよ」

「えっ?」

「息子のために辞められなかったんじゃなくて、単に肩書を失うのが怖かったんですよ。家庭の事情で辞めなかったのではないかというのは、単に私の希望です。そうであったらいいなっていう。でもたぶん、夫の理由はそれではない。嫌だ嫌だと言いながらも、結局は大学教員である自分を守り続けたかっただけだと思いますよ」

そう言うと弥生は立ち上がり、「片付けが残っていますので、失礼します」と言って部屋を出た。廊下を歩きながら、何でこんなに腹が立っているのか、自分でもよくわからなかった。

田辺の中に父性があるなどと、寝ぼけたことを山本が言ったから?
その父性を他人から指摘されるまで気づけなかったから?
親でもない人に、親の正義を押し付けられたから?
自分の知らない田辺がいること。見えてなかったものがあること。伝えてくれなかったこと。何十年も一つ屋根の下に住みながら、何も教えてもらえなかったこと。
そして、そうさせたのは自分なのだということ。

なかなか来ないエレベーターのボタンを何度も押しながら、答えのわからない問いを弥生は考え続けていた。

研究室に戻ると、田辺は窓辺に立ち、熱心に下を見ていた。

「何をご覧になってるの?」

「あれは、藤だよな?」

弥生は田辺の隣に立ち、同じように下を見下ろした。眼下に立派な藤棚が広がっていた。
藤は、自立する幹は大本のみで、そこから分かれる枝は一つとして自立せず、他のものに巻き付きながら伸びていく。巻き付く力は強く、やがては巻き付いたものを絞め上げていく。

「今、満開だな」

「そうですね。上から見ると紫の雲海みたいね」

「ホントだ。こんな大きな藤棚があったんだなあ」

「ご存知なかったんですか?」

「ああ。初めて見たよ」

「あら、そうなの」

「ここに来て、8年にもなるのにな」
「お忙しかったのね」

「窓の外を見る気になんて、なれなかったよ」

「そうだったんですね」

「何本くらいあるんだろうな……」

「あれくらいの大きさなら、一本じゃない?」

「えっ、一本だけ?」

「大きな藤棚の場合は、あっちこっちから幹が生えてる場合もあるけど、普通は一本だけ生えてて棚状になってるんじゃない?」

「じゃああの枝は、どこから来てるんだ?」

「支柱に巻き付いて延びてきてるんでしょう」

「すると根っこで地面に繋がっているのは、あの一本の幹だけ?」

「そうよ。あとは支柱に絡みついてる枝」

「へえ……」

「藤って結構老木多いのよね。樹齢千年なんてのも、ざらにある」

「そうなんだ……。あいつも古いのかな?」

「さあ? ここからじゃわからないわ」

「帰る時、ちょっと見ていこうか」

「そうね。きっとあの下、いい匂いがするわよ」

「そうだな」

そう言うと、二人はまた黙々と本の整理を始めた。

【第二十七話へ続く】

(作:大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

大日向峰歩作『潮時』第二十六話、いかがでしたでしょう。いつまで情熱の持てない仕事を続けるのか? と疑問を持ちながら働いていた田辺に思いがけず訪れた「潮時」を夫婦それぞれに受け止める『研究室の窓から』のラストでした。どんなものが足元に埋まっているかわからない、普通の人の、普通の家庭の、普通の日常の底知れなさ。藤棚の藤の蔓を見ると思い出してしまいそうです。一つのエピソードが終わったところで次回は大好評の心理学エッセイ回です。その次からまた『潮時』の新章をお届けします。どうぞお楽しみに!

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