足利直義:かつて私が聞いた講義では「万事のほかに工夫なし。余計なことさえ考えなければOK」と言っていましたね。
さらには「善だとか悪だとかすら考えるな」とか、「是だとか非だとか、得とか損とかいった判断は、全部一度にきれいさっぱり捨てちまえ」、とも。
もしもこれらが本当のことなのだとしたら、一切の判断を放棄するのが禅宗の神髄だということになります。
だとすれば、華厳宗の「『名前』や『かたち』という呪いから自由になれ」という教えや、三論宗の「ものごとには全て実体がない」という教え、また密教における「自我など存在しない。従って他者も存在しない」という教えと一緒のように思えるのですが、そこに何か違いはあるのでしょうか?
夢窓国師:言葉は似ているかも知れんが、宗派ごとの趣旨はまるで違うぞ!
まず、「一切の判断を放棄するのが禅宗の神髄」というのは大マチガイじゃ!
昔の師匠は言ったよ。
「自我があると思うと得られないし、自我がないと思っても得られない。言葉を尽くしてもたどり着けないし、黙っていてもたどり着けない」、また「自我の有無、言葉と沈黙、それら全てが仏法なのだ」、とな。
ややもすれば昔の師匠の教えは一貫していないように見え、どれを信じたらよいのかわからなくなるものじゃ。
なぜそうなるかと言えば、それらは全て「方便」だからじゃ。
言葉自体を真に受けたところで、何も始まらん。
だから「全部一度にきれいさっぱり捨てちまえ」という言葉を他の宗派と比べても何の意味もない。
真実と妄想の区別をするからといって法の実体を認めているわけではないし、現象がそのまま真理であるからといって物理・科学の研究にのめり込むこともない。
要するに言葉ヅラだけ見てわかったようなつもりになってはイカンのじゃ!
悟りを得てからみれば、それらがどういうことだったのかがわかるじゃろう。
言葉が似ているというのであれば、何も仏教の他宗派に限らずとも儒教やら道教やら、世間のあれこれやらの中にも似たようなものはある。
禅宗の坊主の中に、昔の師匠の言葉を鵜呑みにして、学術研究も理解度による階級も一切無視し、仏法も世間のルールもまるで気に留めないようなヤツがおるが、先輩たちはそれを「木鋤(こすき)禅」だと言って笑っておったな。
木鋤というのは雪かきに使うようなスコップのことなのじゃが、なんでもかんでも掻き捨ててしまおうとする姿勢を揶揄しておるわけじゃな。
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