
【第四十六話】
「えっ」
「いや、探してくれなくてもいい。俺が探しに行っている間、さっきみたいにここにいてくれるだけでいいから……」
満男は心細かったのだ。不安に寄り添ってくれる人が欲しかった。
だが、そんな満男の甘えは、二人いる若者のうち、女のほうには通用しなかった。女は男の袖を引っ張り、ここを離れることを促した。
「あの……申し訳ないけど、この後、ちょっと用事あるので、僕たち帰ります。ごめんなさい」
「いやいや。もちろんだよ。ありがとう。ごめん、変なこと言って。……じゃあ、もし道すがら、それらしき婆さんを見かけたら、電話してくれないか。ちょっと待って。えっと……、これ、どうやって自分の番号出すんだっけ?」
隠し切れない落胆を、媚びることで取り繕いながら、満男は、自分の携帯を若者に差し出した。
「これ、電源入ってないですよ」
「あ、そうだった……。すまん。入れてくれ」
若者が代わりに電源を入れて暫くすると、携帯電話の起動音が鳴った。
小さな液晶画面が点灯するや否や、ブルブルと鳴動した。
「わっ。着信50件とか出てます。これ奥さんじゃないんですか?」
満男が液晶画面を見ると、着信履歴は、全て章子からの電話で埋め尽くされていた。
「いや、これは娘だ。妻の携帯は車の中にあるから、電話はかけてこれないよ」
女が男の腕を小突く。それに応えるように、男は言った。
「そうですか。じゃ、僕たちはこれで……」
「あ、ちょっと待って。番号、番号」
満男は携帯を弄り、番号を出そうとするが、やり方がわからない。
満男は、自分の携帯を再び若者に差し出した。
若者は、満男の携帯を操作し、電話番号を画面に表示させた。
「これ、おじいさんの番号です。メモしていきます。何かあったら、この番号に連絡します。僕、水沼って言います。奥さん、早く見つかるといいですね」
「ありがとう。俺は月野満男。妻は月野鶴子だ。よろしく頼むよ」
一人駅に残された満男は、どうしたもんかと思案していた。
更科市は、月の都として姨捨の棚田を観光の目玉に据えていた。
そのため、決して運転しやすい良い道とは言えない場所にも拘わらず、駅には、夜遅くなっても入れ代わり立ち代わり人がやって来た。
実際に乗り降りする人は少ないながらも、電車も、上り下りとも夜中の零時近くまで、少なくとも一時間にそれぞれ一本はあった。中秋の名月だからか、写真を撮るために下車する客もいた。彼らは、車で来る客同様、眼下に広がる夜景と頭上の月に感嘆の声を上げ、暫く留まった後、去っていった。
満男はベンチから動けなかった。鶴子はきっとここへ戻って来る。
そんな根拠の乏しい確信が、満男の中にあった。方々探して歩いたとしても、夜の山で見つけられる自信もなかった。自分自身まで、迷子になってしまいそうだった。慣れない山道の運転に、疲れも出ていた。鶴子を探して山道を駆け上がったせいで、脚も動かなかった。理性的かつ合理的な推理をするには、満男はもはや疲れすぎていた。ベンチに座ってぼんやり夜景を見ていると、何も考えずにいられた。でもその一方で、山の中で、足を滑らせて怪我をしている鶴子を想像し、居ても立っても居られない心地にもなった。
(あの時、どうして鶴子を一人、残していったんだ……)
満男は自分を責めた。
(あんなに気をつけていたのに。トイレにさえ、一緒に入るくらい)
満男は油断したのだ。信州に来てからの鶴子の調子がよかったから。
昔一緒に観た映画の話、満男に付けられたあだ名のこと、彼岸花の話、気配り、笑顔。そこには、最近の鶴子からは想像のできない二人の時間が確かにあった。23時30分発長野行きの最終列車が出た後は、さすがに肌寒くなってきて、満男は待合室へと移動し、そこで夜を明かすことにした。
車に戻れば、もっと温かく快適に過ごせるけれど、それをするのを満男は躊躇った。
山の中で一人、不安な気持ちにさせてしまっているであろう鶴子への遠慮もあった。
(そういや、ホテルの手配もしてなかったな……。全く俺は何をしてるんだ。認知症の妻を連れて無計画に飛び出すなんて)
月を見せたところで、何も変わらない。呆けは治ったりしない。
できたりできなかったり、思い出せたり忘れたり、馴染みの鶴子と知らない鶴子になりながら、少しずつ少しずつ、忘我の極みに辿り着く。呆けるとは、そういうものだ。そして、妻でも母でも何者でもなくなっていく。潮が引いていくように、愛する鶴子が去っていく。
あの夜、鶴子の口から姥捨の名を聞いたとき、満男は自分の心が一瞬、波立ったのを思い出した。
(団子を取りに車に戻るとき、心の奥底で、鶴子がいなくなることを本当に想像していなかったか?)
自分のずっと奥にいる、もう一人の自分が、そう問いかける。
奇しくもここは姥捨て山。
これから先に待ち受ける介護。
二人の、いや満男の未来には絶望しか見えなかった。
覚悟をもって受け入れるはずだったのに、いざそれが現実味を帯びてくると、逃げ出したくなる。自分にできるか自信がなくて、でもそんな弱腰な自分を認めたくなくて、何もかも捨てて逃げ出したくなったのではないか。もしこのまま鶴子が見つからなかったら……。その時、一瞬でも安堵する気持ちが湧いてきたら……。満男はそんな自分を許せるのだろうか。
あるいは、もし鶴子が見つかったして、満男はどんな顔をして鶴子に会えばよいのだろうか。鶴子の目の奥に〝あなた、私を捨てたのね〟と言いたげな光を見つけてしまったら……。
満男はこのまま、朝が来ないことをただ祈るしかなかった。
アリーナから出て、再び国道403号を東へと進んだ。
満男の頭の中で、昨夜の若者の「警察に届けたほうがいい」という声が何度も繰り返される。
(やっぱり警察に。左に曲がったところにあるって言ってたな)
頭ではそうすることが正しいとちゃんとわかっているのに、そうしようとしない自分。
もう何年もしたことのない徹夜が、鈍くなった満男の頭の回転をさらに鈍化させる。
(一体俺は、どこへ向かって走っているんだ……)
やがて道の案内表示に、『久代駅』の文字が見えた。カーナビに入力した目的地だ。
56年前、鶴子と出会った駅。全てはこの駅から始まった。掴んだ腕の細さと温かさ。あの瞬間、満男は鶴子に恋をした。
胸の奥が熱くなり、涙が込み上げる。
瞬きをしたら涙が零れて落ちるから、満男は瞬きするのを堪えた。男が、こんなことで泣いちゃいけない。視界が潤んで前方が霞む。目の前の信号が赤だということに気づくのが遅れた。慌ててブレーキを踏んだ。
次の瞬間、何が起こったのか、わからなかった。
胸のあたりに強い衝撃を感じると同時に、エアバッグが開いた。
辺りで悲鳴のようなものが聞こえ、泣いている人が見えた。
顔を真っ赤にした男たちが、満男の横のガラスを叩く。
ドアノブをガチャガチャさせて、「エンジンを止めろ!」「サイドブレーキをかけるんだ!」「降りろ」と口々に叫ぶ。
満男は、確かにブレーキを踏んだのだ。でもその足が乗っていたのは、アクセルペダルだった。
【第四十七話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第四十六話、いかがでしたでしょう。満男の徹夜の運転の結果、思いもかけない大事故に。妻との遠い昔の思い出、涙で霞む赤信号……なんて言ってる場合じゃない、間違えて赤信号でアクセルを踏み込み、あたりが悲鳴に包まれる。何が起こった!? 次回もどうぞお楽しみに。
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