【 魔談523 】モンマルトルの画家たち(24)

【 メトロミュージシャン 】

メトロ車内に黒人が入ってきた。黒いソフトハットをかぶっている。皮膚がもう本当に黒い。ソフトハットの生地と同じぐらいに黒い。そのためか顔面がテラテラと光っているみたいだ。目の結膜(白い部分)が異様にくっきりと見えるので、視線の動きがはっきりと見てとれる。ヒョロッとした感じで、身長は結構ある。190cmぐらいか。

こっちに来てちょっと驚いたのは「パリはこんなに黒人が多いのか」ということだ。街を歩けば、視界の中に大抵黒人がいる。美術館や喫茶店ではあまり見かけないが、メトロにも結構乗っている。なので黒人が車内に入ってきたところで注目するようなことでもないのだが、チョコレート色の黒人が多い中で、まさにブラックチョコレート版黒人というべきか、思わず注目してしまうような黒い肌だ。

ブラックチョコレート氏は車内に入るやいなや、ポケットからハーモニカを取り出した。「さすがは黒人」というべきか、アップテンポの曲を演奏し始めた。じつにうまい。車内の乗客たちは一斉に彼の方を見た。しかし慣れているのだろうか、注目は一瞬だけで、その後はなんの関心も示さない乗客がほとんどだった。

彼は車内を動き始めた。1曲が終了するたびにソフトをサッと脱いで逆さまにし、乗客の前に差し出した。「ああなるほど、投げ銭をねだっているのだな」と即座に理解したものの、投げてもいい(あげてもいい)と思った場合はいかほどが妥当なのか、これがまたわからない。こんな些細なことでもいちいち緊張する自分が情けないというか、滑稽というか。「さてどうしたものか」と悩みつつ彼の行動を注視した。

乗客たちは結構冷淡だ。ブラックチョコレート氏は次々に10人ほどの前にソフトをサッと差し出したが、コインを投げ入れた乗客は1人もいなかった。かなり肥満のフランス人おばさまは顔をしかめて首を横にふった。「なるほどここでは拒絶の意思表示も断固たるものだな」と思わせる態度だった。ニコンを下げた日本人おじさまもシャネルを抱えた居眠りおばさまも反応なしだった。

さらに5人ほどの乗客を経て彼は私の前に来るだろう。私はポケットの中に手を入れた。10フランコイン(¥200硬貨)が3枚あることがわかっている。指先でその3枚を確認しながら1枚を彼に投げるかどうか真剣に悩んだ。このような場合の投げ銭は5フランコイン(¥100硬貨)が妥当ではないかと思ったのだが、あいにくその時はポケットに10フランコイン3枚があるだけだった。

10フランコイン

なぜポケットに10フランコインしか用意していなかったのか。これには理由がある。
パリには無料トイレがない。あるのは有料トイレのみで、そこを使うと大抵はコインを入れる木箱が出入り口にあると聞いていた。あるいはそのあたりを清掃している老婦が手を差し出して1コインを求めてくることもあるそうだ。そのような時に5フランコイン(¥100硬貨)1枚ではモロに嫌な顔をされるとものの本に書いてあった。相場は10フランコイン(¥200硬貨)だというのだ。そのような理由で、私はポケットに10フランコインしか用意していなかったのだ。

もちろん財布を出せば5フランコインも10フランコインもある。しかしガイドブックによれば「メトロの中では絶対に財布を出すな」と書いてあった。「まあトイレを1回使っただけで10フランなんだから……」と私は思った。2分やそこらのハーモニカで10フランコインを投げるのも悪くない。そのとき彼が目の前に来た。私は緊張した。

ところが意外な展開となった。
彼は私をチラッと見て「こりゃあかん」とでも思ったのだろうか。ソフトを逆さまにして差し出すこともなく、さっさと次の客の方に行こうとした。
「おいっ!」てな気分。「そりゃないだろう!」てな(微妙に傷ついた)気分。私は(ポケットの中とはいえ)10フランコイン1枚をしっかりと握って彼を待っていたのだ。それなのにその態度はないだろう。

私はほとんど無意識に彼の肩に手を触れていた。その行為は(私の想像以上に)彼を驚かせたらしい。私の方に向き直った彼の驚いた目!
私は笑顔で10フランコインを差し出した。
その瞬間の彼の笑みを、おそらく私は終生忘れないだろう。真っ黒な大きな手が伸びてきた。手の平は驚くほど白かった。
我々は握手し、さらにハグした。メトロは駅のホームに滑りこみ、彼は笑顔で降りていった。降りて行く途中で2回も私を振り返って笑顔を見せた。
メトロは停車し、ドアが開閉し、再び発車するまで彼は私の方を見て手を振っていた。

【 つづく 】


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