コールさとうさんは宗教人類学者である。大学の先生である。が、象牙の塔に引きこもっているタイプでは全くない。
「世界がオレの研究室」とおっしゃったかどうか知らないが、フィールドワーク大好きで、毎月のように沖縄へ行っている。
遊びに、ではないと思う。いや遊びと研究に何の違いがあろうか。遊ぶように研究し、研究するように遊ぶのだ。
何言ってるかわからなくなってきたが、とにかくさとうさんは今日ホテル暴風雨にはいない。
沖縄でスコールに打たれているのだ。それでも原稿はアップされる。すばらしい。
さとうさんのブログ「世界はコールとレスポンスで出来ている」を毎回楽しく拝読している。
さとうさんの言葉はいつも軽やかで、結論があるようでないようで、ピシッと終わるよりはゆるく開かれて終わる観がある。
これは「コール」なのだなと感じる。結論を押しつけてくるのではなく、自由な「レスポンス」を誘っているのだ。
昨日更新の「表現形式としてのコールとレスポンス3」は、言葉には意味とリズムがあるという話だった。
言葉は心を伝えるための極めて優秀な道具だが、もともと単独で機能するものではない。目の前にいる相手と、互いの表情、身ぶり手ぶり、声の調子を感じ合いながら使用し発達させてきた道具なのだ。
同じ言葉でも、どんな表情で口に出されるかで、まるでニュアンスが変わってしまうことがある。
苦渋の表情から絞り出された「ありがとう」と、底抜け笑顔の「ありがとう」。
同じ意味だと受け取る人はいないだろう。
しかしコミュニケーションは多様化した。手紙があり、電話があり、メールがある。顔が見えないやりとりに私たちはずいぶん慣れた。
わたしは今でも「会って話そう」の人間だが、いつもそういうわけにいかないのは渋々ながら承知している。
三つを比較してみよう。
電話にはまだ声の調子がある。声は非常に正直に気持ちを反映するものだ。
手紙には筆跡がある。これもなかなかに人柄や気分を伝える。
そしてメール。これは実にさまざまなものを剥ぎとられつくした形態である。まさに言葉が単独で機能することを求められている。
しかし。
それはやはり難しかった。
電子メールが生まれた極めて初期のころ、既に顔文字が発明されている。ついで絵文字、スタンプと拡大したのはご存知のとおり。
明らかに顔が見えないこと、どんな表情で、どんな声で発された言葉かわからないことを補完しようとする動きである。
むきだしの言葉だけでやりとりするなんて誰も望んでいないのだ。
人間には五感がある。そのすべてを動員して我々は世界を知ろうとする。コミュニケーションもしかり。一つではなく、たくさんの情報の集積として成立するのが本来の、当然の姿なのだ。
さとうさんの「コール」に対する「レスポンス」として、こんなことを考えた。そしてこれはまた一つの「コール」である。
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