──ここは羊村通商大臣ヘルメスの豪奢な屋敷。
ヘルメスは交易事業で巨額の富を得ていたので、羊村の中でも一際目立つ豪華な屋敷を所有しています。
メリナ王国の職人に作らせた暖炉が据えられた執務室で、ヘルメスは部下からの報告書に目を通していました。
その報告書はメリナ王国に潜入している部下からのもので、どうやらオオカミ軍司令官フェンリルが死んだようだ、と書かれていました──ヘルメスはニヤリと笑い、その報告書を暖炉の火の中へと入れます。ヘルメスはメリナ王国だけではなく、他の国々にもスパイを潜入させているので、最新の情報がたちどころに、ヘルメスの元へ入ってくるのです。
抜け目のないヘルメスは、その情報網を使い『オオカミ族は本物のオオカミではない』という噂をジャッカル共和国に流しました。
そして、その噂を信じたジャッカル達は、オオカミ族に援軍を送るのを見送る決断を下します
──全てはヘルメスの思惑どおりに事が進んでいました。
……その上、オオカミ族最強と呼ばれ恐れられていたフェンリルが死んだとなれば、オオカミ
族を滅ぼすのは今しかない。ヘルメスは暖炉の火を見つめながら、次の計画を練りはじめます。
この頃には、ヘルメスは羊村での実権を殆ど掌握するのに成功していました。
羊村村長ショーンの娘が裏切り、オオカミと逃亡したのはすでに全ての羊の知る所となり、そのせいでショーンの権威は揺らぎつつあります。
その頃合いを見図り、ヘルメスは羊村の保守勢力を追いやり、代わりにヘルメスの影響下にある羊達を政権の中へと徐々に入れていったのです。
もはや、ショーンが羊達の信頼を回復するには、娘のソールを捉え処罰し、メリナ王国と全面的な同盟を結び、オオカミ族を滅ぼすしか残された道はないでしょう。
もうこれで、ショーンを潰したも同然だな──と、ほくそ笑むヘルメスは、誰かが背後にいるのに気づき、振り向くとそこに末娘のアンジェリアが立っていました。
今は戦時中なので、そういえば学校は閉鎖されていたのだな、とヘルメスは思い出します。
「──ねえパパ、外に行くと銃を持った羊がたくさん居て怖いわ。いったい、いつ戦争が終わるのかしら ?」
至る所で、メリナ王国軍の野営地が作られており、羊村にはこの所随分と羊兵の数が増えてきていました。このままでいくと、いずれ羊村はメリナ王国の統治下になるのかもしれません
が、しかし、ヘルメスにはそれは、どうでもいい事でした。
自分の財産を守り、末娘のアンジェリアさえ幸せになれば、後は羊村がどうなろうと、よかったのです。
「──もうすぐだ。あと少しで悪いオオカミは、全部やっつけてしまうからな。そうすれば戦争も終わるだろう。戦争が終わったら、お前を憧れのメリナ王国へと留学させてあげよう。だから、今のうちに勉強をしなさい。わかったかね ?」
メリナ王国へ行けると聞き、アンジェリアの顔がパッと明るくなりました──そして「うん!」と元気のよい返事をして、二階の子供部屋へと駆け上がっていきました。
二階へ上がったアンジェリアを見届けると、暖炉から離れガウンを羽織りヘルメスは外へと出ます。
数日前に戦に勝ち占領した、ヤルンヴィドの森を視察しておこうと思ったのです。
羊村を取り囲む大きな壁から外へ出ると、門番をしていた羊兵達がヘルメスに向かって敬礼をしました。
羊兵達は、誰が羊村の実質的な盟主なのか理解していたのです。
勿論、今でも村長ショーンが彼らの盟主ではあるのですが、いずれはヘルメスが彼らの盟主になるだろう、と思っています。
「ヘルメス様。護衛はつけなくても、大丈夫でありますか ?」
「なに、もうここらには生きたオオカミはおらぬであろう。心配するな、すぐ戻る」
そう言い、ヘルメスは森の中へと入っていきます。
メリナ王国軍が導入した最新兵器のおかげで、実に容易くオオカミ軍を討ち、羊兵はここを占領したのです──すでに、戦死オオカミの亡骸は片付けられていたのですが、森の中にはオオカミ達の原始的な武器が散乱しています。
それらの弓矢や刃先の短い剣を見て、ヘルメスは羊村の勝利を確信しました。
羊兵は遠眼鏡付きの銃も、大砲ももっており、それに比べ相も変わらずオオカミは弓矢で戦っているのですから。
──ふいに、空から鳥が羽ばたくような音が聞こえたのでヘルメスは、顔を上げ青空を仰ぎ見ます。
目をこらすと、空に何か飛んでいるのが見えましたが、しかしそれは鳥にしては随分と大きい。
羽は確かに鳥のようでしたが、その胴体はまるで羊かオオカミのよう──いえ、よく見れば胴体も羊ともオオカミとも違っており、ほのかに光り輝いていました。
《天使》……そんな言葉がヘルメスの頭の中をかすめます。
そう、その姿は聖堂に描かれた天使の姿に最も似ていたのです。
天使のような姿をしたそれは、高度を下げヘルメスに近づいてきました。
大きな羽を羽ばたかせながら、ヘルメスのすぐ目の前に着地し、足が地面に着くと、それは羽を背にたたみながら言いました。
「ヘルメス殿。お話をする機会を、お待ちしていました」
ヘルメスは口をポカンと開き、目の前に着地した謎の生き物を見つめていましたが、やがて気をとり直します。
「……お前は《天使》なのかね? だとすれば、いったい私に何の用がある ? 」
ヘルメスは唯物論者なので、神の存在なんか全く信じておらず、勿論天使が実在するとは思っていませんでした。
その謎の生き物は、体全体を光らせながら、顔に微笑みを浮かべています。
「そう、小生の事を《天使》と呼んでいただいても、かまいません。私は創造主の使いなのですが、そのメッセージをそなたに伝える為、来ました。──ヘルメス、そなたは《選ばれし者》なのです」
「《選ばれし者》 ? なぜ私が ? 」
「ヘルメス殿、そなたはソールとアセナという羊とオオカミを存じておられましょう。──ソールは元そなたの部下なのですから、勿論知っているでしょう。ソールとアセナは、そなた達を裏切り現在逃亡していますが、あの二匹を断じて結ばせてはなりません。それは自然の掟に反しており、すなわちそれは創造主の掟にも反する背徳なのです。そなたは、それを阻止すべく《選ばれし者》なのです……」
誰よりも冷静沈着なヘルメスでしたが、今彼の頭の中は混乱していました。
ヘルメスは戦争にさえ勝利すれば、後はどうでもいいと思っていました──あの世も信じてなんかおらず、元々この世は地獄だと思っており、そこで生き延びるのがヘルメスの哲学だったのです。
(そんな私が《選ばれし者》 ? すると何か ? 私は神の導きで、楽園にでも行けるというのか?)
そんなヘルメスの思考を読んだのか、《天使》が穏やかな口調で言いました。
「──ヘルメス殿、そなたは楽園に入るでしょう。しかしそれには、あの二匹が結ばれるのを阻止せねばなりません。何故なら、二匹が結ばれると楽園は崩壊するのです。しかし残念なが
ら、二匹を助けている《堕天使》がいます。彼女は狡猾です。彼女は創造主の教えに背き、ソールとアセナを結ばせようとしています──その結果楽園が滅びるかもしれないのに。それを阻止する為であれば、あの二匹の死は止む得ぬ天命と言えましょう。そして、それを実行するのが《選ばれし者》であるそなたの役目なのです……。私は天使なので、肉体を持っておらず、み言葉しか伝えられません。しかし約束しましょう。そなたは、天命を果たした後、必ず楽園に入るでしょう──」
そう告げると、《天使》はふいに姿を消しました。
ヘルメスは周囲をキョロキョロと見渡しますが、どこにも気配は残っていませんでした──夢でも見ていたというのか ? と手で目をこすろうとすると、手の甲に何か違和感を感じます。
──よく見ると、手の甲に焼きゴテで焼き付けられたような模様が刻まれていました。
ヘルメスはしばらく、その模様を眺めていましたが、それは天使が残していった印なのだと悟ります。
森を吹き抜けるそよ風に当たりながら、ヘルメスはしばし立ち尽くします。
今までヘルメスは敵を倒し、金を稼ぐ以外はこれといって生きる目的はなかったのです。地位も名誉も得た今となっては、すでに虚しさしか残っていません──
フン、《選ばれし者》か。とても信じられた話ではないが、天使が語っていた、その天命とやらに従うのも、そう悪くはなかろう……ヘルメスは、元の冷静で冷酷な顔つきに戻り、踵を返し元来た道を歩き始めます。
ヘルメスは天使の印が刻まれた手を握りしめ、羊村の門をくぐりました。
時は羊歴1420年、第七の月、戦闘が開始され三月経過した夏の事でした。
――――つづく
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