オオカミになった羊(後編5)by クレーン謙

夜風が吹き、羊が被っているマントがはためきました。
ーーアリエスは顔が見えぬその羊を見てふと思います。
この羊は、実は黄泉の国からの使者ではないか ? と。

大巫女は、あの世とこの世とを繋ぐため、ひいては太陽と月との調和のために祈り、儀式を執り行います。
長年の献身が実を結び、神が使者を私に遣わしたのではないか ? とアリエスは思ったのです。
アリエスの心の中の動きを見透かすようにして、灰色マントの羊が言いました。

「アリエス殿、そなたは自らの生涯を捧げ、羊村の為に尽くした。だのに、村の羊たちはそっぽを向き、もはや誰もそなたに敬意すら払わぬ。そなたは、村の羊達が憎いのではないかな? 違うかね」

「…………」
そのように問われアリエスは言葉なく立ち尽くしましたが、しかし灰色マントの羊の言うとおりです、アリエスは村の羊達が憎かったのです。
もっと若ければ、とっくに太陽寺院の大巫女なんか辞めて金持ちの御曹司の所にでも嫁ぎ、子を何匹ももうけ豊かな生活だって送れたかもしれないのです。
若かりし頃、美しかったアリエスには実際、言い寄ってくる羊が多く居ました。
やはり、この羊は黄泉の国からの使者なのだ、とアリエスは確信しました。

黄泉の国の使者は、マントから重そうな布袋を取り出しました。
中からジャラジャラと金貨のような音がします。
「アリエス殿、金貨50枚を差し上げよう。そなたの長年に渡る献身を讃えて」

アリエスは差し出された金貨の袋を、恐る恐ると受け取りながら、自分と同じように年老いた弟の事を考えていました。
貧しい生活を送っている弟に、これで何か美味しい食事を買ってあげられるわ、と。

「……ただ、ひとつだけ願いがある」
薄ら笑いの表情を覗かせながら、黄泉の国の使者が言います。
夜風がひとつ吹き、寺院のロウソクの火がユラユラと揺れ動きました。
黄泉の国の使者は、マントから小瓶のようなものを取り出し、テーブルの上に置きました。
小瓶の中には、何やら怪しげな色の液が波打っています。
「明日の朝、オオカミに供える肉にこれを入れてほしい。肉を食らったオオカミは、たちまちのうちに死に至る」

アリエスは、顔からサーッと血の気が引くのを感じました。
「そんな事をすれば、怒り狂ったオオカミ族が羊村を襲撃してくるわ! 」
「フフフ……、左様、確かにオオカミ族は羊村に宣戦布告するであろう。しかし、これで村羊達に思い知らせる事が出来るのではないかね ? いったい誰のおかげで、羊村の秩序と平和が保たれていたのか、と。それにもはや、羊村の者どもは、オオカミを聖なる動物だとも信じておらぬ。そなたも、そうではないかね ? ……であるならば、村羊達の曇った目をこれで覚まさせるのだ。古いしきたりを捨て去り、オオカミ族と完全に決別し、新しき秩序を作るためにも」

もし目の前の羊が、神の使者であるならば、大巫女はその導きには従わねばいけません。
使者が言うように、アリエスにはもはやオオカミを神聖視する信心はあまり残っていませんでした。
手を震わせながら、アリエスがテーブルの上に置かれた小瓶を握ると、黄泉の国の使者は後ろに振り向きながら言いました。
「事が成されたのを見届ければ、さらに金貨50枚をお持ちしよう」
夜風にマントをなびかせながら、黄泉の国の使者は太陽寺院を後にしました。

通商大臣のヘルメスは、太陽寺院の正門から外へと出ると、被っていたマントを顔から下ろし、一息つきました。(ここに来るのは、誰にも見られておらぬであろう……)
それに、ヘルメスが被っているような灰色のマントは寺院の参拝者がよく被っているので、誰も怪しむ者はいないのです。
粗末な作りの小屋が立ち並ぶ太陽通りを歩きながら、ヘルメスは子供の頃を思い出します。

ヘルメスは、ここと同じような貧しい羊達が暮らす地域で幼少を過ごしました。
父は日々ラム酒をあおり、母は常に病床だったので、ヘルメスは誰の愛情も受ける事なく大きくなりました。
成羊になったヘルメスは必死になって働きます。
時には友人ですら裏切り、商売敵を違法ギリギリの方法で蹴落とし、ヘルメスは自分が始めた輸出業を成功させました。
大金を得たヘルメスは美しい羊をめとり、15匹の子宝にも恵まれ、その手腕を買われ羊村の通商大臣の地位も得ました。

ヘルメスは月明かりが射す夜道でふと立ち止まり、考えます。
(……私はなんの為に成功を追い求めたのか ? 地位か ? 名誉か?しかし、それら全てを得た今も、心の隙間だけは埋まらぬ。どうしても埋まらぬのだ。私は父のように酒にも溺れなかった。ただ、ただ働き続けた。稼いだ金で、慈善事業もやった。……なるほど、村羊達は私を尊敬の眼差しで見る。しかし、この虚しさはいったい何という事か。私はただ、名誉を得るだけの為に生きてきたというのか ? )

自分自身が暗闇そのものになったかのように、ヘルメスは夜道で立ち尽くしました。
しかし、ヘルメスは思い出します。
たとえ、全てが偽りの生涯で、何も残っていなくとも、自分の子供達を愛する心だけは本物だと。
ヘルメスは再び歩き出しました。

「わが子たちの将来の為にも、オオカミ族は滅ぼさねばならぬ。なんとしてでも」

――――つづく

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