クリスマスをどうにか乗り越え、今年も年末年始の慌ただしさがやってきたが、もちろん育児に休日は存在しない。ただひたすら子どもに合わせた日々のルーティンをこなすことが求められるわけで、世の中がいつもと違う動きをする時期というのはそれなりの覚悟が必要になってくる。
今年はいつもなら寝る時間になってもテレビが見たいと言って絶叫していた子どもをどうにかお風呂に誘導し、パジャマに着替えさせている間に年が明けていた。
年末は公園に遊びに行く時によく立ち寄るパン屋さんが閉まっていたので、仕方なくお昼ごはんの前に「吸うやつ」を渡すことになった。
「吸うやつ」というのはパックに入ったゼリー飲料のことで、このところの息子の大のお気に入りである。これは主に外出する際などに持っていくもので、ちょっと特別感がある。家の冷凍庫に常備してあるスティック状のゼリーを凍らせたものは「長いゼリー」と呼ばれており、それとは違う「吸うやつ」を「公園で食べる」ことは息子にとってかなりプレミアムなことなのである。
最近はごはんよりも先にゼリーやお菓子を食べたがるので、「ごはんをちゃんと食べてからだよ」と言い続けているわけだが、公園のベンチに座って「吸うやつ」を夢中で飲んでいる息子を眺めながら、ふとそのことに疑問を持った。
お菓子やデザートはきちんとごはんを食べてから、というのは、先にお菓子を食べてしまうとそれでお腹がいっぱいになって食事が偏ってしまう可能性がある、というごく当然の考え方からだ。
しかし、息子は「吸うやつ」を8割方飲み干して「とっとく、あとでのむ」と言った後、しっかりと別のパン屋さんに行ってゲットしたハンバーガーにかぶりつき、チーズとクランベリーのパンも半分たいらげ、その後も「から揚げ食べたい」などと言っている。お菓子ばかり食べて食事をきちんととらないことは問題だと思うが、息子にはどうやらその心配はなさそうである。
そもそも食べ物や食べ方の順番も国や文化の違いによっていろいろな形があるのかもしれないので、とりあえずいろんなものをおいしそうによく食べていれば、過剰に細かいことを気にしなくてもいいのではないだろうか、と思い始めた。
自分の子供の頃を思い出すと、なにしろ「ちゃんと食べなさい」とずっと言われていた気がする。もともとそんなにたくさん食べる方ではなかったが、家族全員の分が大皿でどんと出てくるようなことはほとんどなくそれぞれの分がきちんと用意されたので、食べたか食べなかったかがすぐにわかってしまう。
決まった時間にきちんと自分の分の食事を出してもらえるということは大変にありがたいことだと今は思うが、これが子ども心にはかなりプレッシャーだった。
お腹が空いているかどうかに関係なく、何をどのくらい食べたかを逐一監視されているようで、好きなものでもあまり楽しい気持ちになれなかった。
気になってちょっと調べてみると、最近の保育施設などではきちんとバランスよく食事を取ることよりも、まずは子どもにとって食事が楽しいと思えるものにすることを重要視する考え方に変化してきているようで、これは子どもの頃の自分にとってはだいぶホッとする状況である。
叱ったり注意したりすることはもちろん必要だし、大切なことだと思う。しかし同時に、それがどうしてなのかを養育者がしっかり考えることはさらに重要なのではないかと思っている。
自分は子供の頃、いつも叱られていた記憶がある。それは父親が学校の教員だったことも大きく関係しているとは思うが、どうしていけないのかを聞くと「ダメなものはダメだ!」と一喝されるだけで、自分はそのことにどうにも納得がいかなかった。
今思うと、父はきっと自分の子どもとのコミュニケーションの方法を他に知らなかっただけなのだろう。今と違って学校の先生というのは子供を叱ったり注意したりすることが仕事のような時代であり、そしてきっと父も有無を言わせず「ダメなものはダメだ!」と言われることが当然の時代に育ったのである。
子どもは最も近くにいる人間、主に養育者の影響を受けてそれをモデリングし、同じことをする。そしてその傾向は大人になってもずっと引き継がれていくことになる。
気がつくと自分も息子に無意識に「ダメ!」と言っていることがあり、その理由をきちんと説明できていないことに時折気がつく。
今の時代に子育てをする機会に恵まれた自分は、自分の養育者が得られなかった子どもとのコミュニケーションの方法を得ることで、息子と、そして子どもの頃の自分ともあらためてもう一度向き合えるのではないかと思っている。
(by 黒沢秀樹)