電車 居眠り 夢うつつ 第29回「なにわぶし論語論」のこと

ご存知の方もいらっしゃるだろうが、この「電車 居眠り 夢うつつ」は月イチ連載。残りの3週は、「なにわぶし論語論」と題して、論語の中の気に入った章、気になる章の紹介をしている。
論語という本を初めて通して読んだのは、たぶん10年くらい前だったと思う。そんなに深い理由があったわけではない。一応世界的に有名な東洋思想の原典だから、「教養として」読んでおいてもいいんじゃないか、と思ったわけだ。
そう思って読み始め、まず冒頭の学而編第一章を読んで驚いた。

子曰く(しいわく)、学びて時に之を習う、また説ばし(よろこばし)からずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。
人知らずして慍みず(うらみず)、また君子ならずや。

はじめの2文は、有名だからもちろん知っていた。だが、3文目は全く知らなかった。そして、この3文目を知ったことで、それまでは訳のわからん退屈な爺さんの説教としか思えなかった前2文が、政治家としての活躍の場を得られずに在野の一教師として日々を送っている孔子の、半分諦めた、しかし完全には諦められない微妙な感情を表しているのではないかということに初めて気がついた。
堅苦しい思想書あるいは道徳の教科書と思っていた「論語」は、じつは人情溢れる本なのかもしれない。
予想は的中し、論語の中の多くの逸話は、論理的というより情緒的な話であることがわかった。そして後日私は「なにわぶし論語論」を書き始めることになったである。

さて、このような情緒的で、あまり論理的とはいえない書物が、儒学の最高の教科書とされるのは、どういうことだろう。
「なにわぶし論語論」を書くために論語をじっくりと読み返して感じたことを一言でまとめると、「道徳とは感情論である」ということだ。
誰かが「それは感情論だよ」と言う場合、普通それは良い意味にならない。だが、道徳、倫理というものの本質は、感情論以外ではあり得ないのではないだろうか。
悪を憎む、不幸な者を哀れむ、自分の弱さを恥じる、これらは全て感情である。倫理道徳から感情論を取り去ったら、罰を受けるか受けないか、損か得かの「勘定論」しか残らないだろう。
もちろん、「勘定論」も必要である。正確に勘定をする能力を、孔子は「知」と呼び、人の修めるべき徳目の一つに挙げる。だが、知はあくまでも仁(愛)より下位に置かれる。仁を実行するためのツールが知なのである。孔子はまた、弟子たちに詩や音楽を学ぶことを奨励している。
おそらく孔子は、道徳の根幹が感情であることをかなり意識していたのではないだろうか。

さて、「なにわぶし論語論」の方は、連載終了に近づきつつありますが、まだ10回くらいは続きそうです。こちらも読んでいただけると、嬉しいです。

 (by みやち)

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