老化と介護と神経科学17「相模原障害者殺傷事件」

3月16日、相模原障害者殺傷事件の第一審判決が下った。
本件は、老人の介護に関わる者にとっても、ひとごとではない。
被告は最後まで「意思疎通できない重度障害者は不幸を生む不要な存在だから安楽死させるべきだ」と言う主張を変えなかったという。

19人を殺害、26人を負傷させたという凄惨な事件だが、この事件の本当に恐ろしいところは、その凄惨さではない。被告の主張が首尾一貫し、ある意味理路整然としていることだ。
このようなことを書くと、「お前は被告を弁護するのか」と言われそうだが、そんなつもりは毛頭ない。彼のしたことは完全に間違っていると思うし、極刑をもって望むより他はないと言う裁判長の判断を完全に支持する。
だが、極刑の判決を聞いても、被告をやっつけた、よかった、と言う気分にはなれない。むしろ今だに我々が彼に負けつつあるような、気味の悪さが残る。(まだ負けてはいないと思うが。)

被告は、『遺族や被害者家族が見守る前でも、重度障害者について「無理心中や介護殺人、社会保障費など、多くの問題を引き起こすもとになっている」「意思疎通できない障害者は安楽死させるべきだ」などと特異な主張をしていた』(毎日新聞)という。
さらには自分の責任能力について、『「責任能力を争うのは間違っている。自分には責任能力がある」と弁護側の方針に異議を唱え、「なければ即、死刑にすべきだ」と訴えていた』(読売新聞)。
せめてここで被告が「自分は心神喪失状態だったので、責任能力はない」と言ってくれたら、どんなにか気が楽だったろう。

彼の主張の気持ち悪さの理由の一つは、じつは同じようなことを我々の誰もが多少なりとも考えている、ということだろう。
「とんでもない!」と言われるかもしれない。だがじっさい多くの人が「歳をとったら、寝たきりになって人に迷惑をかける前にぽっくり逝きたい」と言っているではないか。
他人に迷惑をかける前に死んだほうが良い。その主張を、自分に向けるか他人に向けるか、それだけの違いではないだろうか。
繰り返しになるが、被告は自分に対しても「(責任能力がなければ)即、死刑にすべきだ」と言っているのだ。

正直に言おう。私自身、被告の主張に「論理的に」反駁することができない。
ある程度有効そうな反論はある。誰でも障害者になる可能性はある。それなのに障害者を排除していると、人々の不安が増大し、社会が破綻する危険があるというものだ。
だが、自分自身その論理にはあまり納得していない。なんだかこの理屈では、根本的なところで彼の論理――社会のコストとベネフィットですべての物事を判断する――に同調しているような気がするのだ。

こんなときに、私の父が生きていたら、こう言ったのではないかと思う。「論理もくそもあるか。そんなことは仁義にもとる」と。
まったく論理もクソもない言い方だが、この考え方が一番正しいように、私には思える。

人はたった一つの原理に従って動いているわけではない。利己、利他、悲観、楽観、愛、憎悪など、いくつかの、しばしば相対立する原理(感情)に動かされている。
一つの原理だけに従って論理的に突き詰めると恐ろしい結果になる。植松被告の主張に負けないためには、論理性よりも、複数の原理のバランスを取る能力が大切だろう。
そういう能力を「中庸」と言うのではないだろうか。

(by みやち)

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