前回、老年期のごく初期に、「親密性対孤独」という前成年期の課題に再会するケースがあるのではないかということを書いた。
やはり老年期の比較的早い時期に、青年期の課題であった「アイデンティティ対アイデンティティの拡散」という問題が出てくるようだ。
「アイデンティティ」という言葉は、心理学用語としてはエリクソンが広めた言葉で、今では大抵の人が知っていると思われる。だが、エリクソン自身がどのように説明しているか確認しておこう。
ここで重視されたのは、一つの集団の内的な統一の本質をなすものの見方<価値観>と、その集団内の個人の核心をなす何かとの同一性 identity である。
なぜならば若者は、自分にとって最良のはずの人々に対して自分が最良のものになるという形で、最良のものになることを学ばねばならないからである。
この同一性という言葉は、自己自身の中の永続的な同一(自己同一)という意味と、ある種の本質的な性格を他者と永続的に共有するという意味の双方を暗示するような相互関係を表している。(『自我同一性 アイデンティティとライフ・サイクル』小此木啓吾訳編)
キーワードは「集団」と「価値観」だ。この考え方に従えば、孤独なアイデンティティというものは存在しない。アイデンティティとは、単に自分が何者であるかという客観的な認識ではなく、自分がある集団と価値観を共有し、その集団の中で自分が価値ある存在であるという、価値判断を伴う認識である。
では、どのような集団と価値を共有するのか、言い方を変えれば、自分をどのような集団にアイデンティファイするのか。それは、同じ職業の集団の場合もあるだろうし、同じ宗教を持つ人たちかもしれない。血族というのもあるだろう。エリクソン自身ははっきりとは書いていないが、一人の人が同時にいくつかの集団に、様々な程度にアイデンティファイする(一人のアイデンティティがいくつかの要素を持つ)というのが普通ではないだろうか。例えば、ある人のアイデンティティには性別と職業が大きな意味を持っているが、出自や出身地はあまり意味がない、というようなことがあり得る。
先日、テレビでドキュメンタリー番組を見ていたら、一人のベネチアの女性が、「私はベネチアで生まれ育って、ベネチアが大好き。だからベネチアのためになることをしたいの」と、笑顔で語っていた。おそらく彼女は、自分がベネチアのために何か良いことができるという確信も持っている。こういうのを、郷土アイデンティティと言って良いのではないだろうか。
だが、現在人、特に多くの日本人男性にとっては、職業アイデンティティというのが、非常に重要だと思われる。
しかしサラリーマンの場合、定年退職というものがある。退職直後は、自分がこれまでよく働いたということで満足しているかもしれない。だが、何年か経ち、もはやその職業のために自分が役に立ってはいないという事実が重くなってくると、アイデンティティの危機である。そんな時に、例えば地元の自治会活動などに新たなアイデンティティを見つける人もいるだろう。だが、私の身近では、結構多くの男性たちが、自分の家系にアイデンティティを求めたよ
うに見える。
私の父は、はじめは家系図に凝り始めた。引っ越しの時に見つけた家系図を眺めて、初代はなんとかという人で、自分は十何代目にあたる(悪いが、正確に何代目かは覚えていない)、などと嬉しそうに話していた。そしてついには、先祖の住んでいた高知県の町(父自身は東京生まれの東京育ちである)に土地を買って、記念碑を建ててしまった。ちなみに父は、若い頃に親戚の老人が同じような記念碑を建てたのを見て笑っていたのだ。
同年輩の父親を持つ友達に聞いてみると、これに類する話がいくつも出て来た。ある人のお父さんは、退職後にコツコツと資料を探し、自分の一族の歴史をまとめて本を自費出版した。ほかには仏壇に毎日お茶やご飯を供えて拝むようになった人もいて、「そんな人じゃなかったんだけどなあ」と、息子は不思議そうに言った。ある人のお父さんは、いくつもあった古い先祖の墓をまとめて、立派な新しい墓を建てた。
この老人たちは皆、自分のアイデンティティを出自、家系に求めたのだと、私は考えている。
アイデンティティとは、自ら進んである集団(芸術家、信州人、キリスト教徒、〇〇家一族etc)の一員となることである。「〇〇家一族」の場合は、客観的事実としては、生まれた時から決まっているが、その一族であることに価値を見出し、自ら進んで役割を果たそうとした時に初めて、その一族としてのアイデンティティを持ったと言える。
そのような集団は、二つの意味での広がりを持つ。一つには、自分と同時代のたくさんの人たちがいる。もう一つの意味は、自分より前の時代にも、自分より後の時代にも、仲間がいるということだ。
たとえば、芸術家としてのアイデンティティを持つ人にとっては、同時代に世界の様々な場所で活動している芸術家たちも仲間であるし、過去の芸術家たち、将来芸術家になる人たちも仲間だろう。
私は前者を「水平面上(同時代)の広がり」、後者を「垂直軸方向の(時代を超えた)広がり」と呼びたい。(私は、こういう視覚的イメージが好きである。)
青年期のアイデンティティの危機では、水平面上、すなわち同時代の集団の中で自分の存在を確認すること、より良い存在になろうとすることが重要だろう。しかし、老年期のアイデンティティの危機では、自分の死後のことが意識されてくるから、垂直軸上のつながりが重要さを増すのではないだろうか。
家系、そして家系を表す家系図や墓や先祖の位牌は、この垂直軸上のつながりを実感させてくれるものだろう。
前述の、代々の墓を新しく建てた人は、その墓についての夢を楽しそうに語ったそうだ。いつか、その墓の周りに桜をたくさん植えて、公園のようにしたい。そうすれば、孫たちも、そのまた孫たちも、そこに集まってくれるだろう、と。彼は、その墓石を通して、遠い先祖から遠い子孫までのつながりを見、その中に自分自身を位置付けていたのではないだろうか。
さて、私が個人的に知る限り、老後に家系図だの墓だの家の歴史だのに凝るのは皆男性である。これはどうしてだろう。多くの女性は多くの男性ほど職業に依存していないから、退職によってアイデンティティの危機を迎えることがないのだろうか。それとも、日本の家制度が男性中心だったから、女性はもっと別のところにアイデンティティを求めるのだろうか。
(by みやち)
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