老化と介護と神経科学8「介護と怒りの感情」

身近な人の、例えば自分の親の認知機能が落ちてきて、生活に支障が出るようになると、何かといらいらすることが多いものである。

「さっき言ったでしょ!」「目の前にある物がなんで見えないの!?」「まだやってないの!?」えとせとらえとせとら(*)。

当時、私が実家に行くのは月に一度程度、電話をするのも週に一度程度だったのだが、それでも腹の立つことは多く、時には我慢できずに大声を出すこともあった。
「時には」? いや、一時は「会うたびに」だったかもしれない。

なぜそんなに怒るのだろうか? 厳しく注意することによって行動が改善される、などという非現実的なことは、もちろん考えていない。息子に怒られれば親が傷つくことも理解している。怒ることは、合目的的な行動ではない。単純に、自分の中に生じた怒りの感情を発散しているのである。

なぜ腹が立つのだろうか? じつは、私が腹を立てている親の行動も、別に犯罪ではないし、そんなに人に迷惑をかけるようなことでもないのである。通販で役に立たないサプリメントを買い込んだって、それを飲まずに溜め込んだって、生活が破綻するわけではない。外出の支度に時間がかかったって、人が困るわけではない。たんに、私の期待する親の行動ではない、というだけの話である。

ずいぶん前にホテル暴風雨で、将来のことを考える能力(mental timetravel)が、ヒトとヒト以外の動物の違いだという心理学者の話を紹介した。
将来を予測することができるからこそ、予測や期待を裏切ることに対してストレスを感じ、腹が立つのかもしれない。
高齢になって認知能力が衰えれば、若い人の常識的な期待を裏切ってしまうのは、仕方のないことである。それに対して、周囲にいる若い人(家族など)が怒りを覚えるのも、これまた仕方のないことである。高齢の親を持つ知り合いの話を聞いても、「この前は頭にきちゃって、、、」という話は出てくる。
しかし、ネットなどで介護に関する話を読んでも、家族の怒りについての話は、ほとんど正面から取り上げられることがないのはなぜだろうか?
それはたぶん、高齢者に対する怒りなど、「あってはならないもの」だからではないだろうか。

いつの頃からか、「あってはならない」という言葉をよく耳にするようになった。ちょっと安易に使われすぎるのではないかと、私などは思ってしまう。「あってはならない」というのは、言い換えれば「良くない」「正しくない」ということなのだが、「良くない」などとは違い、そのものの存在自体を否定するという意味で、ある種呪術的な言葉である(**)。

そういう私自身、親に対して怒るのは悪いことであると思い、怒りの感情を抑えようと、長年努力してきた。その努力の成果は、ほぼゼロだ。感情を押さえ込んで成功するのは、その状況がごくまれにしか起こらない場合である。しょっちゅう怒っているのに、それを抑え込もうとしてもかえって事態は悪くなるばかりである。だからと言って、怒鳴って発散すれば解消できるかというと、そんなこともない。

ある日私は、理由は忘れたが、また母親に向かってひどく怒ってしまった。流石に言いすぎたと思い、ちょっと迷ったが、謝った。すると、自分の中の怒りがすっと治まっていくのが感じられた。母の表情も穏やかになったように見えた。
「ごめんで済むなら警察いらない」と言うが、ごめんで済まさなければならないこともある。「責任をとって息子を辞めます」と言うわけにもいかないのだ。不思議なことに、謝ると言う技を身につけて以来、私が親に対して腹をたてることはめっきり少なくなった。怒りを消すことはできないが、怒っても謝れば良いと思うだけで、怒りの「圧力」のようなものはだいぶん減るようである。

「老化と介護と神経科学」だから、このことについて神経科学的な解説ができれば良いのだが、何も思いつかない。怒りというのは、実験的研究の難しい感情だ。被験者や動物に、確実に怒りを引き起こす実験手法というものは存在しないし、もしうまく怒らせたら、実験に協力してもらえなくなる。困ったものである。

(*)「あれ?」と思われた方は、おそらく先週もこのコーナーを読んでくださった方でしょう。ご贔屓に感謝します。今回は、前回入れようと思ってやめたネタです。

(**)おひまでしたら、「電車 居眠り 夢うつつ」第28回をご参照ください。

(by みやち)

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