老化と介護と神経科学31「なぜ認知機能が障害されるのだろう?」

認知症では、認知機能が選択的に障害される。
――などとまじめくさって書くと、笑われてしまいそうだ。「だから『認知症』なんじゃないか」と。いやまあ、その通りなんですが。

認知症を引き起こす病気はいくつも知られているが、全て脳の病気だ。脳の病気で認知機能が障害されるのだから、何の不思議もない、とは、実は言えない。

正確な統計は知らないが、認知症と並んで、最もメジャーな脳の病気といえば、脳卒中だろう。
脳の血管が詰まったり(脳梗塞)、逆に血管が破れて出血したり(脳出血)する病気だ。
そして脳卒中の症状として、誰もが思い浮かべるのは、麻痺だ。腕や足など体の一部(ひどい時は半身全体)が動かせなくなる。

前頭葉皮質の後ろ3分の1くらいを占める、運動野と呼ばれる場所、ここに出血や梗塞が起こって脳がこわれるためだ。左右の運動野はそれぞれ反対側の体を制御するので、右半球の運動野が障害されれば左半身、左半球が障害されれば右半身に症状が出る。
また運動野は、場所によって、脳天に近いところは足、その下は胴体、その下は手というように、動かす体の部位が決まっている。(「体部位再現地図」とか、「脳の中のこびと」とか呼ばれる。)そのため、障害された部位によって、症状が手に出たり、足に出たり、顔に出たりする。

認知症で一番多いアルツハイマー病の場合、脳の萎縮は側頭葉の内側にある「海馬(かいば)」の周辺から始まることが多いそうである。海馬やその周辺は記憶、特にエピソード記憶の形成に重要なところなので、アルツハイマー病は「物忘れ」から始まることが多い。
面白いのは(と言っては不謹慎だが)、その後の病気の広がり方である。前頭連合野、頭頂連合野など、認知機能に重要なところを選んだように広がっていくのである。アルツハイマー病以外の認知症でも、だいたい同様である。だから、認知症では、運動機能は保たれて、認知機能が選択的に障害されるのだ。

さて、認知機能とか運動機能とか言っても、すっきり二つに分類できるものではない。たとえば、ジャズピアニストがアドリブを交えながら見事な演奏をするのは「運動機能」なのか? 数学の練習問題をたくさんやると、解き方のコツが身につくのは、スポーツの練習と似ているのではないか?

行動の階層的制御という考え方がある。前頭葉の前の方(主に連合野)が様々な状況に応じて、どのような行動をとるべきか、大まかな方針を立てる(*)。
もう少し後ろの領域(主に運動野の前側)が、スムーズな行動のための感覚と運動の複雑な調整をする。ここは、いわゆる「認知機能」にもかなり関わる、認知と運動をつなぐ領域だ。主に運動野の後側が、精緻な運動の実行を担う。ざっくり言うとそういうことだ。前の方ほどより認知的な判断に関わりが強く、後ろの方ほどより具体的な運動に関わりが強い。

認知症で前頭連合野の機能が損なわれると、トンチンカンな行動をしたりして、大変困る。物忘れも大変困る。それでも、運動野の機能が損なわれるのに比べればずっとマシである。体が麻痺してしまったら、生きていくこと自体が難しい。体が動いても、水道の蛇口のひねり方を忘れたり、箸がうまく使えなくなったら、やはり日々の生活を維持するのが困難だ。あるいは、視覚野がやられて物の形が分からなくなっても、かなり悲惨だ。
それに比べれば、無計画に買い物をしたり、手際よく料理が作れなくなったり、さっき会った人の顔が分からなくなるくらいは、まだましである。
なんというか、脳は、生きるために必須の機能を守るために、いわゆる「高次機能」を犠牲にしているのではないか、などと思えてくる。

(*この機能、特に順序立った行動を計画する機能を「実行機能」(あるいは「遂行機能」)という。認知症の症状の説明でよく出てくる言葉だ。これは英語の “Executive function”の訳だが、誤訳とは言わないまでも、あまり良い訳ではないと思う。会社の役職の「執行役員」などに倣って「執行機能」とするか、カタカナで「エグゼクティブ機能」という方が分かりやすいだろう。)

(by みやち)

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