老化と介護と神経科学30「発達段階と老化段階(8)」

赤ん坊がこの世に生まれてきた時、本人にできることはほとんど何もない。
彼または彼女が他の人間やこの世界と関わる方法は二つだけ。相手を信頼して身を預けること(そして乳を飲むこと)と、泣き叫び、体をのけぞらせて不信を表明すること。
適切な養育者がいれば、身を預けていれば適切な世話をしてくれるはずだし、泣き叫べば、原因を探って対処してくれるはずである。

このようにして、人間は人と世界を信頼することを学ぶ、というのがエリクソンの述べる心理社会的発達の第1段階である。
この段階で、十分な信頼と、必要に応じて経験する不信とのバランスが取れていれば、人は人生に対する「希望」を確立することができる。

老年期の最終盤、寝たきりになり、手厚い介護なしには生きられなくなる。
この時にも、やはり人(介護者)への信頼が重要になる。信頼があろうがなかろうが、介護者は介護をするかもしれない。だが、信頼できない相手に体を預けて介護を受けるというのは、絶望的な体験ではないだろうか。

寝たきりという状態がそもそも絶望的なのだ、と考える人もいるだろう。そう考えるほうが普通かもしれない。だからこそ、寝たきりにならないための生活習慣、運動、サプリメントなど、介護予防のさまざまな方策が考えられているのではないか。

たしかに、健康と活動性を保つことは良いことだ。できる限り、寝たきりになんかならないほうが良い。それはそうなのだが、一方で、人は必ずいつかは死ぬ。肉体と精神の全ての活動性がゼロになる。したがって、完全な活動性から活動性ゼロの状態へ移行する中間段階を必ず通るはずだ。
その中間段階(寝たきりを含め、活動性の低下した状態)に長くいるくらいならポックリ死んだほうが良いという考え方もある。それは、活動性の低い状態は必ず不幸だという前提に基づく考え方だ。それとは反対に、活動性の低い、老化した状態を、より幸福な状態にする努力もあって良いのではないだろうか。

こう考えることはできないだろうか。老化のすべての過程は、最後に寝たきりになった時に、介護者を信頼して、希望を持って生きるための準備だと。
そのために、人は老化の過程で少しずつ様々な能力を捨て、人に頼って生きることを学ぶのだと考えられるのではないだろうか。

いや、準備は歳をとってから始まるというわけでもないだろう。それ以前の人生も重要だ。
介護者を信頼するためには、まず自分が人を信頼する気持ちを身につけておかなければならない。また、信頼できる介護者を作らなければならない。
それは、自分の子供を信頼できる人間に育てるということでもあろうし、職業的介護者が生き生きと働ける環境を作るということでもあろう。
弱者を思いやるゆとりのある社会を作るということでもあろう。
そう考えると、人生の全ては老後のためにあるのではないかとも思えてくる。

もちろんそれは極端な考え方だ。しかし、心身の弱った老人が機嫌良く生きられる社会は、障害者一般にとっても生きやすい社会だろうし、いつか老化や不慮の事故で障害を抱えることになるかもしれないすべての人にとっても良い社会と言えるのではないだろうか。

(by みやち)

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