愛知県の緊急事態宣言が解除され、うちの職場でも電車通勤の制限がなくなった。これで私も、また電車で居眠りしながら通勤ができるようになる。ありがたい。
それはさておき、今回は、前回に引き続き、村上春樹の新刊「一人称単数」のはなし。「またかよ」と言わずにお付き合いください。
じつは前回の原稿を書いた時は、この短編集の最後の一編、表題作である「一人称単数」を読んでいなかった。その後この表題作を読んだことで、この短編集全体に対する私の印象が全く変わってしまったのだ。
あまりネタバレ的なことは書きたくないが、「一人称単数」で描かれているのは(あるいは描かれていると私が感じたのは)、主人公である「私」が見た「私」の姿と他人が見た「私」の姿の絶望的なずれである。
作家というのは因果な商売である。作家になるのは、書くのが好きな人だろう。「私」が感じたこと、考えたこと、「私」の中で生まれた物語。そういったことを書いて他人に読んでもらう。うまく行くと、本が売れ、有名作家となる。村上春樹のように。
有名になると、今度は「私」の作品と「私」について、他人がいろいろなことを書くようになる。そんなものは読まないのが良いのだろうが、有名になればなるほど、いやでもいろいろな評論が耳に入ってくるだろう。しかも、言い方によっては、自分が見る自分の姿というのは主観的であって、他人が見る自分の姿こそが客観的な事実であるとも言えるのだ。「一人称単数」はもちろんフィクションだが、主人公の感じる当惑や不快感は、おそらくは作者自身が度々感じたものではないだろうか。
この作品を読んで、私は、この短編集に収められた他の作品は全て、この表題作のために並べられているのではないかと思ってしまった。
前回書いたように、この本の最初の4作に対する私の第一印象は、あまり良いものではなかった。何だか、村上春樹っぽさが行きすぎているように感じられたのだ。じつは村上春樹はすでに亡くなっていて、本人の「三年間は死を伏せよ」という遺言を守った遺族と編集者が理研に相談し、スーパーコンピュータ「富嶽」と最新のAI技術によって作り上げた最高の贋作なのではないか。そんな空想さえしてしまった。
だが、「一人称単数」を読み終えてから私が考えたのは、もしかしたら、他の作品は、作者本人による贋作なのではないか、ということだった。
こういうものが村上春樹の小説だ、と読者が考える、と村上春樹が考える小説。
異常な出来事が平凡な日常の中にあたりまえのように組み込まれていたりする。ジャズファンの主人公が、中古レコード屋のオヤジと会話したりする。バーのカウンターの隅の席で主人公が1人で文庫本を読んでいたりする。若い男女が出会えば、もちろんセックスする。みんなが村上春樹的だと思う小説って、こういうものだよね。そういうものを村上春樹自身が意図的に書いたとしたら、もの凄い技術だ。清水ミチコに清水ミチコ自身の物真似をしろと言ったらできるだろうか?
そういえば、精神分析家の藤山直樹は、「分析家の仕事は、患者に対して “I think that you think that…” ということを言い続けることだ」という意味のことを書いていた。
短編集「一人称単数」は、村上春樹による村上春樹ファンの分析なのかもしれない。
(by みやち)
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