電車 居眠り 夢うつつ 第30回「認知症」のこと

「認知症」という言葉に違和感を覚えるのである。「違和感を覚える」という言い方にも違和感を覚えるのだが、それは措く。

違和感を覚えると言うのは、けっして「認知症」という言葉が悪いとか、使うべきでないとか言っているのではない。この言葉を使うようになった経緯も、そこに込められた想いも、よく理解できるし、かなり共感もしているのである。
現在でいう認知症は、以前は老人性痴呆と呼ばれていた。だが、これでは「早発性痴呆」と同様、治る見込みがない、どうしようもない感じが付きまとってしまう。
「呆け」という言葉もあるが、これは医学用語ではない。「認知症」という言葉には、「これは医学的に確認できる症候群であり、治療できるはずである、いや、治療してやるぞ!」という意思が込められているわけだ。それはよくわかる。立派だと思う。

だが、認知症が主に老人に起こるせいだろうか。認知症について考えると、ついつい「寿命」という言葉が頭にちらついてしまうのだ。
人は皆、一度生まれ、一度死ぬ。死というのは、脳を含めた体の全器官が活動を停止した状態だ。完全な活動状態から完全な活動停止状態への移行が一瞬で終わる場合(即死)もあれば、十年、二十年かかって移行する場合もある。身体のすべての器官が同時に機能を停止する場合もあれば、特定の器官の機能低下が他に先行する場合もある。
かつては循環器系、呼吸器系、消化器系などの機能不全で死に至ることが多かったので、神経系の機能が問題になることは少なかったが、結核患者は激減し、心筋梗塞も胃がんもかなりの割合で治る病気になってしまった、というところで、神経系の機能低下が問題になってきた、ということだろう。
問題になってきたのだから、その問題に対して医学的に対処するというのは、正しい態度だ。だが、いずれは機能が低下するのである。

認知機能が完全に正常なまま死ぬ人もいるが、それは神経系より先に他の器官がダメになったということだから、あまり喜べる話でもない。
最近、身体の不自由な人に関しては、バリアフリー化というのがずいぶん進んでいる。認知機能の不自由な人に対するバリアフリー化ということも、もっと考えても良いのではないだろうか。
たとえば機械類のインターフェイス(操作部)のデザインなんかは、あまりコロコロ変えないでほしい。以前はボタンで操作していた機械を液晶タッチパネル式になどすると、老人はお手上げである。若い人ならなんでもないと思うかもしれないが、ひょっとするとそれは、「なんとか使えている」から気にならないだけで、最新のデバイスに囲まれた生活というのは、結構認知能力の限界に近いところまで使っているのかもしれないと思う。

ずいぶん昔の話だが、二十世紀の終わりころ私は三年ほどアメリカで暮らしていた。日本に帰ってくると、駅の切符の販売機が、みな液晶画面になっていた。まさに切符を買おうとしたときに、機械の使い方がわからないことに気づき、戸惑いながら、じっと券売機を観察していると、後ろのおっさんから「早くしろよ」と容赦ない声を浴びせられたのを覚えている。
まだ私が三十歳代前半だった時だ。機械のデザイン変更というのは、若者にとってもそれなりにタイヘンなのである。これが八十歳の老人なら、新しい機械の使い方を覚えるまで、こういう経験を10回も20回も繰り返さなければならないだろう。

私の知り合いで、ガラホというのを使っている人が何人かいる。中身はスマホだが、操作部のデザインはガラケーというやつだ。こういうことも、やればできるのである。
技術者の皆さん、最新技術もいいけれど、できればユーザーには最新技術の習得を求めないようにしてください。

(by みやち)

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