電車 居眠り 夢うつつ 第58回「悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか」

「悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか」というのは、心理学や神経科学の教科書の感情に関する章(普通は「感情」ではなく「情動」と言う言葉が使われる)で必ず出てくる話だ。

19世期末の心理学者ウィリアム・ジェイムズとカール・ランゲは、常識とは逆に、意識的な感情の経験(悲しい、怖い)は、生理的現象や反射的な行動(泣く、逃げる)によって引き起こされると提唱した。これはあくまで仮説だが、これを支持する実験もあった。例えば、脊髄損傷のために末梢の情報が脳に伝達されなくなった患者では、感情の感じ方が弱くなったという。
その後のウォルター・キャノンらの研究では、動物が感情的な反応(怒りの表情など)を表出するのに、主観的な経験に重要な大脳皮質が必要ないことがたしかめられた。その後の多くの研究で、主観的な感情(悲しい)と生理的変化(泣く)は比較的独立のメカニズムで並行して生じていることが示唆されている。
つまり、「悲しいから泣く」わけでも、「泣くから悲しい」わけでもないと言うことだ。

以上のことは、私も本で読んで知ってはいたのだが、先日、「ああ、こう言うことか」と実感する経験をした。
スマホで撮った写真をしばらく整理していなかったので、私は仕事帰りの電車の中で、不要な写真を削除しようとスマホのアルバムを見ていた。スマホだと簡単に撮れるので、ついつい似たような写真を何枚も撮ってしまうものだ。ダブっている写真、取り損ないの写真を一つずつ選択して、消去していく。結構時間のかかる、面倒な作業だ。逆に言うと、通勤電車の中の暇つぶしとしてはもってこいである。そうして過去の写真を順番に見ているうちに、急に目頭が熱くなり、胸が軽く締め付けられるような感覚を覚えた。

私には、なぜ自分が泣くのか、訳がわからなかった。私が見ていたのは、どう見ても楽しそうに笑っている妻の写真だったのだ。その写真の何が悲しかったのだろう? いや、幸せで涙が出ると言う話もあるが、どちらにしても、私には自分が泣く理由が全くわからなかった。私が何か感情を感じる前に、私の目と胸がその写真に反応し、私は感情抜きで、その身体的な変化を知覚したのだ。

その時の自分の感情については、後からいろいろ考えて、自分なりに納得はした。それにしても、はからずもジェイムズとランゲ以来多くの心理学者と生理学者の論争のテーマとなった現象を自ら実感した、貴重な体験であった。

(by みやち)

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