心・脳・機械(7)倫理・情動・本能

情動を伴うか否かが、倫理(あるいは道徳)とルールの違いではないだろうか。
というのが、前回の結びだった。
つまり、倫理とは情動を伴う行動規範である、と言う考え方だ。

たとえば、あるコンビニで、AさんとBさんが買い物をしていたとしよう。
二人とも、静かに買い物をし、レジで支払いを済ませて店を出た。だが、実はAさんは万引きを目的に店に来たのだが、店長の監視の目が厳しいので諦めたのだったとしたら、どうだろう。
一方のBさんは、盗みなど考えただけで気分が悪くなってしまうタイプだとしよう。
二人とも、法律上は何の問題もない。だが、倫理の面で見れば、大違いである。Bさんにとっては、盗みという行為は、強い負の情動価を持っている。Aさんにとって、盗みなどは何の問題もない。盗みを見つかって捕まることに対する強い負の情動と、見つかる確率が高いという合理的判断が、彼に思いとどまらせたのである。
倫理的な人とは、悪事を働かない人ではない。悪事に嫌悪感を持つ人のことだ。

さて、倫理というのは世界中にあるし、古代からあるようだ。一体何のためにあるのだろう?
ここでは盗みの例を出したが、倫理・道徳というと、だいたい基本の中身は世界共通ではないだろうか。他人のものを盗むな。他人を殺すな傷つけるな。他人を助けよなど。いずれも、他の人との良好な関係を築き、社会を安定に維持するのに必要な行動規範だ。
倫理は、社会を維持安定させるためにある、と言えそうだ。
そしてときには、倫理は個人的な本能的欲求と対立することさえある。

だが、世界中で、太古の昔から現代まで、同じような倫理が受け入れられているとしたら、やはりこれにも本能的(あるいは遺伝的)な要因があるとは考えられないだろうか。
孟子は、儒教の徳である「仁」について、以下のように説明している。

人皆な人に忍びざるの心あり。今、人の乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆な怵惕惻隠の心あり。惻隠の心なきは、人にあらざるなり。惻隠の心は、仁の端なり。(公孫丑章句 上)
(人にはみな人に忍びないと思う心がある。今、人であるものが、今にも井戸に落ちようとしている幼な子を見たとしたら、みな憐憫の情、可哀相と感じる心を持つものだ。憐れみの心がない者は、人ではない。 憐れみの心は、仁であることの始まりである。<訳はウィキクオート>)

たしかに、子供が井戸に落ちそうになっているのを見たら、誰もがハッとするのではないだろうか。見殺しにする人もいるだろうが、そういう人でも、見殺しにすると決める前に一瞬、「あっ」と思うのではないか。この「あっ」という情動が誰にでも起こるものだとしたら、それはやはり本能によるものと考えるべきではないだろうか。

(by みやち)

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