心・脳・機械(12)倫理・情動・本能(続続)

前回は、人には利己的な本能だけでなく利他的な本能もあるのではないかということを書いたのですが、「利他的な本能」というのは私が勝手に作った造語です。自分としては結構気に入ってますが、より一般的な言葉で言えば「共感」が近いでしょう。
自分ではなく他者に起こった出来事に対して情動を感じるという意味で、「共感」というのは良い言葉ですが、それが、経験によって獲得されるものではなく、生得的なものだという点と、単に情動を感じるだけでなく利他行動につながる点を強調すると、「利他的な本能」と呼びたくなるわけです。情動が行動をドライブするというのは、当たり前と言えば当たり前なのですが。

利他的な本能があるとしても、経験的に言って、利己的な本能に負けることが多いようです。世界中のどこに行っても、利己的な行動よりも利他的な行動の方が良いとされているのに、利己性の方が強いというのは、ちょっと不思議な気がします。
ですが、ひょっとしたら、人類が生まれたばかりの頃は、利他性は現代ほど重要ではなかったのかもしれません。ほとんど道具も持たず、農耕も知らず、木の実を拾ったり、小動物を捕まえたりして、カツカツの生活をしていた時代なら、助け合うと言っても、たかが知れています。狼の群れに襲われたら、とにかく自分の足で走って逃げるしかないわけで、傷ついた仲間を背負ったりしたら、二人ともやられてしまうでしょう。
しかし、ともかく人間は、少しばかりの利他性は持っていた。そう考えるのは、ヒトという種が元々持っていなかった性質が突然現れるとは考えられないからです。(もちろんここでいう「利他性」には、自分の子供に対する愛情は含まれません。幼い子供たちが特別扱いを受けるのは、多くの動物に見られることです。子供が特別な保護を受けられなければ、その種はあっという間に滅んでしまうでしょう。)

利他性というのは、言語や道具の使用と同じくらい重要な、ヒトの性質といって良いのではないでしょうか。(ヒト以外の動物の利他行動は、盛んに研究されていますが、あったとしても非常に限定的なもののようです。)そして、(たぶん)単純で原始的な言語から現代文学や数学や暗号理論が生まれ、石包丁からパワーショベルやドローンや電子ドラムが生まれたように、本能的な利他性、共感からさまざまな洗練された倫理が生まれたと考えても、それほど想像の飛躍とは言えないでしょう。だとすると、文学や科学技術や音楽が、文化として人から人へ、世代から世代へ伝えられるように、倫理も文化として伝えられなければならないわけです。

赤ん坊が手を叩いて楽しく声を上げることから交響曲へ。ブランコやシーソー遊びから物理学へ。お菓子を公平に分け合うことから倫理や社会正義へ。このような行動の洗練は、世代を超えて受け継がれた文化の力によるものでしょう。
文化は、長い年月をかけて発展し、洗練の度を増していきますが、それにつれて、元々の情動体験から切り離されていく、というのはよくあることのような気がします。悲しいことですね。

「心・脳・機械」というタイトルをつけながら、最近脳の話をしていませんでした。次回は、脳の話に戻る、はずです。

(by みやち)

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