心・脳・機械(9)「認める」ということ

我々の心がさまざまな事柄を把握・理解することを「認知」というが、この「認知」という言葉自体が、実は人間の認知の特性を表しているのではないか、と最近思うようになった。

認知という言葉は、認める、知る、と書くが、この「認める」という言葉は、なかなか曲者である。
学術論文で「〇〇の値の急激な増加を認めた」などという場合、「認める」という言葉が表すのは、物事を客観的に観測・検出するということであり、その事柄の善悪や価値についての評価は一切含まない。
ところが、「長年の努力が社長に認められた」とか、「芸術家として世に認められるようになった」という場合の「認める」は、良い、価値があるといった評価以外の何物でもない。
また、「認める」が許可を表す言葉として使われることも多い。もちろん、良いことは許可され、悪いことは許可されない。
一方の「知る」の方は、もう少し中立的に使われることが多いようだが、それでも「あんたなんか知らない!」というのは、決して中立的な “I don’t know you.” という意味ではない。

このような言葉の両義性は、日本語に独特なものかというと、そうでもないようだ。英語でも、acknowledge, appreciate, recognize などの単語は、知る、見る、見分けるなどの意味とともに、高く評価する、感謝するなどの意味も併せ持つ。
つまり、そもそも物事の存在を認知するということは、すなわちその存在を良いものと判断するということであり、その存在を許容するということなのではないだろうか。裏を返せば、悪いものの存在は許容されず、認知すらされないということだ。
そう考えてみると、たしかに私たちは、個人としても組織でも、自分たちの中の悪にはなかなか気づかないし、自分たちがしてしまったことについては、何とかして正当化しようとする。そういった傾向は、単なる損得勘定を超えたものなのかもしれない。
科学の世界では、事実とその評価を明確に分けるが、そういった近代科学が発展したのは、19世紀以降のことである。数十万年といわれるホモ・サピエンスの歴史と比べれば、ついさっきの出来事だ。人間の認知システムでは、本来認知と評価は不可分なのではないだろうか。そういう性質を理解しておくことで、客観的、科学的な事実の認知も少しはやりやすくなるのではないだろうか。

(by みやち)

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