心・脳・機械(22)無意識という普通のもの、意識という不可思議なもの。

最近、教科書的な真面目な話が続いたので、今回は、教科書には載らない話を。

大学生の頃、精神分析についての本を読んだら、「フロイトが無意識を発見した」というようなことが書いてあってびっくりした覚えがある。無意識なんて、わざわざ発見するようなものかいな? 「我知らず」なんて慣用句があるくらいだから、無意識に行動するなんて、昔からそれほど珍しいことではなかっただろうに。

それから年月が過ぎ、神経科学の世界に入ってみると、無意識を発見するどころか、意識の方が訳のわからない不可思議なものだということがわかってきた。今日の科学でも、「意識」とはどのような脳の活動によるのか、きちんと説明することはできていない。

そもそも、人間の行動というのは、だいたい無意識に起こっていることが多いのではないだろうか。朝、家を出て出勤する。家を出るときはたぶん意識して出ているのだと思うが、家から駅までの道のりを、どれだけ人は「意識して」歩いているだろうか。
私自身のことを言えば、たぶんあまり意識していない。その証拠に、たまに、駅に行く途中で寄り道して用事(ポストに手紙を入れるとか)をしようとすると、ほぼ確実に忘れるのである。つまり、家を出て歩き出すのは意識的でも、途中で猫に挨拶をするのは意識的でも、いつもの駅に歩いて行くという行動は、ほぼ無意識に行われているということだろう。

科学者は、人間や動物の行動や認知の背後にある脳の活動をいろいろと明らかにしてきた。後頭葉の一次視覚野は、視覚刺激に反応する。そこから信号はいくつもの皮質領野によってリレーされ、側頭葉の前の方の細胞は、たとえば特定の顔に反応する。つまり顔を見分ける細胞だ。
だが、そういう細胞の活動は、麻酔下の動物で記録されている。ちょっと意識とは関係ありそうにない。脳の色々な部位を電気刺激すると、体の運動が起こる(指が動くとか、あるいは歩行運動が起こるとか)。そういう実験も、たいていは麻酔下で行われている。

意識とはなんなのか、なぜ意識が必要なのか。意識とは、無意識なんかよりはるかに謎めいた存在なのだ。

(by みやち)

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