【 静寂の店内 】
さてチョウの展翅標本店。
その店は日本式に表現するならばまさに「ウナギの寝床」だった。すごく細長い。とはいえそれは決して珍しいことではない。京都の町屋だってそうだ。
左右の壁にはずらりとチョウの展翅標本が並んでいた。その標本を順に見て行ったのだが……。目指すチョウがない。
そう、私はこの店の看板にかかげられていたチョウを見たかったのだ。見る前からすでに期待は募っていた。大きさはクロスジアゲハぐらいだろうか。左右の羽に配置されているターコイズブルーの大きな眼状紋は、モルフォチョウのようにそこだけが金属光沢みたいに輝いているのだろうか。
音楽ひとつなく静寂に満たされた空間の奥から「ボンジュール」とさびた声が響いてきた。レジは細長い部屋の一番奥にあるらしい。部屋全体が曇天の夕暮れのように薄暗かった。私も「ボンジュール」と返した。これまでの経験で「店に入ると必ず店員があいさつしてくる。ちゃんとあいさつを返すこと」と心得ていた。しかし目をこらしてみたが、レジのあたりは薄暗くてよく見えなかった。傘つき電気スタンドのぼうっと輝いたオレンジ色の光が見える。たぶんそこがレジなのだろう。私は奥に進んだ。

レジに座っていたのは、かなり高齢の老人だった。レジというよりも小さな仕事机に古風なレジスターがひとつドンと置いてある、といった感じだ。老人は店長だろうか。ここではとりあえず店長としておきたい。
彼はきちんとスーツを着てネクタイを締め、ハードカバーの分厚い本を広げていた。(チラッと見ただけなのでよくはわからないが)古い時代のドイツ版画のような挿絵があった。中世の物語なのかもしれない。
この細長い空間にいるのはおびただしい数の蝶の標本と、きちんとした身なりの店長だけだった。その独特の空間と静寂は「モモ」(ミヒャエル・エンデ)の世界にヒョイと紛れこんだような不思議な感動を私に与えた。
「私は日本人の旅行者です」と英語で彼に伝えた。「……フランス語を話すことができません」
幸いというか、彼は笑顔でうなずいた。軽く右手を差し出し、「どうぞ」といった仕草をした。「どうぞ御自由に御覧ください」といった意味であるように思った。それはとても嬉しかったが、私はとにかくドア脇の看板になっていた蝶を見たかった。引き出しを片端から開いて探すといわけにもいくまい。またしても会話ができないくやしさを味わうことになった。
「さてどうする?」
【 女性客 】
思案し始めたとき、ドアが開いてひとりの客が入ってきた。ちょっと意外なことに長身の女性だった。40歳ぐらいだろうか。背丈は私と同じぐらいか、私よりも少し高い。シックな黒いロングコート。染めているのかと思うほどの見事な赤毛のロングヘア。彼女はコツコツとハイヒールの音をたてながらまっすぐにレジの方に来た。まるでファッションショーの檜舞台を闊歩するモデルのように綺麗な歩き方だ。まじまじと見るのは失礼だと知りつつ、思わず注目してしまうような女性だ。
彼女は私の近くまでくると、私をチラッと見てなんともいえない穏やかな微笑を浮かべた。日本じゃちょっとお目にかかれないような微笑だ。
私はレジの前を離れて棚の方に戻った。そのときにふと妙案を思いついた。リュックを下ろし、スケッチブックと色鉛筆を出した。色鉛筆は黒とターコイズブルーだけを選んだ。開帳10cmほどで「看板の蝶」をガサガサッと描くのに1分もかからなかった。これを店長に見せたら「ああこのチョウを見たいのだな」と理解してくれるに違いない。
客の女性は静かな口調で店長と話をしていた。話の内容はわからないが、雰囲気はじつに和やかで親しげだ。常連客なのかもしれない。店長はある方向を人差し指で示しながら二言三言、彼女にささやいた。ささやくようなさびた声だったが、この部屋の静寂では不思議なほど明瞭に響いてきた。その様子から見て「Kの4番を開いてみなさい」とかそういった内容なのだろう。彼女はうなずき、礼をささやき、その方向に向かった。
私は店長に絵を見せた。彼は両手を軽く開いて「感心した」といった態度を見せ、席を立った。私にも人差し指で棚の方向を示すのだろうと予想していたので、彼がわざわざ案内しようと席を立ったことが嬉しかった。しかし(後に思ったのだが)実際のところはそうではなく「この客はおとなしそうだが、所詮は遠来のヒヤカシだ。だから要注意だ。勝手に引き出しを開けさせない方がいい」という判断だったのかもしれない。
彼は終始笑顔で、ある棚の前に私を導き、ひとつの引き出しを開いた。じつにスムーズに、音ひとつ立てずスルスルと開いた。きっとレールが敷いてある引き出しなのだろう。出てきたのは引き出しいっぱいに整然と並んだチョウだった。全部引き出すと、引き出し全体がひとつのケースになっており、上部ガラスが開くような構造になっていた。
息を飲む、というのはまさにこの瞬間の私の心境だろう。あのチョウが、なんと5匹も整然と並んでいた。
それぞれの脇に小さなシールが貼ってあった。フランス語で記されたチョウの名称はわからなかったが、お値段はわかった。360フラン。なんと¥7200。
数分間、私はただ茫然とそれを眺めていた。ハッと気がつくと店長は女性客のところにいた。上部ガラスを開き、中から1つのチョウを取り出し、エプロンのポケットに入っていた小型ケースに入れた。よく見えなかったが、そのケースでもチョウを突き刺していたピンをプスリと突き刺すことができるようになっているのだろう。彼女はそれを買うことにしたのだ。
彼女はどんなチョウを買ったのだろう。もし普通に会話することができたなら、きっと私は好奇心につられて彼女のところに行き「失礼ですが、どんなチョウをお買いになったのですか?」と聞いていたことだろう。それができない自分が悔しかった。
私は慎重に引き出しを奥に引っ込めた。彼らに軽く声をかけて店を出た。
静寂の別世界からザワザワと人の気配が交差する街頭に戻ったような気分だった。
【 つづく 】

