【 魔談545 】モンマルトルの画家たち(46)

【 展翅標本看板 】

私はさほどチョウに詳しいわけではないが、少年時代は捕虫網を振り回して野原を駆け回っていた懐かしい思い出がある。そうした記憶は「三つ子のたましい……」ではないが、高齢者となっても感覚の中にしっかりと刻みこまれている。日常的には雑用に紛れて忘れてはいても、夏の昼下がりに裏庭の雑草を刈っていてふと草の匂いを感じたりとか、なにかの拍子に思い出すと、胸にグッと迫ってくるような郷愁の思いにしばしとらわれる。

さてコミック専門店を出て半時間ほどぶらぶらと歩いたところで、チョウを見かけた。
飛んでいたわけではない。「左右の羽をピンと伸ばした展翅標本」とでも言おうか、なんとそれを額装にして看板として掲げている店(?)があった。チョウも額装も実際の大きさではなくもう少し大きい。

それは看板用に制作されたものだったが、じつに精巧にできていた。チョウの開張(羽を左右に開いた端から端までの長さを示す数値)は30cmほどあった。箱の左右も50cmほど。それが青いドアのすぐ脇の壁に取り付けられていた。文字はなく、ただその標本だけがドアの脇にあった。ちょっと謎めいた店ではある。私は思わず足を止めた。

謎めいてはいるものの、その店のたたずまいには「いいセンスだ」と思わせるものがあった。
文字はなく額装標本だけを看板にしているという特異性もさることながら、青いドア、ドア脇の標本、ベージュの石壁。それらには独特の上品さがあった。しかもその(ひとつだけの)チョウがまた見たこともない模様で「フランスにはこんなチョウがいるのか!」と思わず見惚れてしまうような不思議な模様だった。日本のチョウで言えば、クロスジアゲハのようにシックな黒に身を包んだチョウなのだが、なんと左右の羽にそれぞれひとつずつ大きな眼状紋がついている。それがまたじつに美しいターコイズブルーなのだ。

「眼状紋」とはなにか。これはチョウが左右の羽をパッと開いた時に、まるで目玉のように見える丸い模様のことである。
なぜチョウの中にそのような模様を身につける種がいるのか。いくつか説があるのだが、最も有力な説は「天敵(鳥)をびっくりさせて身を守るため」だとされている。実際、多くの鳥は「目玉」のような模様を見せるとパニックになるほどの恐怖を持つと実験で報告されている。

私は思わずその「看板チョウ」をまじまじと見ていた。一瞬「創作だろうか」と疑うほどにそれは美しいチョウだった。しかし「いやいや、きっとフランスにはこんなチョウがいるのだ」と思い直した。

なんとしても現物の標本を見たいと思ったが、店に入っていく勇気がない。それにそもそもなんの店なのかわからない。「チョウの標本専門店だろうか」と想像しながら街頭に立ち(なんとなく人を待っているようなフリをしながら)店の客の出入りに注目していた。しかし20分ほど待ってみたが、入っていく客も出てきた客も、ひとりもいない。

「だめだ。わからない」とあきらめてその場を去り、5分ほど歩いてまた戻ってきた。このまま立ち去ってしまったら、次にここに来る機会など、まず0%に近いだろう。

【 名和昆虫博物館 】

運を天に任せるような気分でドアノブを回した。ギイッときしんだ音をたててドアは開き、中に入った。細長い室内だった。左右には高さ1m半ほどの引き出し収納棚がずらりと隙間なく並んでおり、その上部の壁には、これまた隙間なくチョウの展翅標本が並んでいた。

外国の家庭では、壁いっぱいに(額装つきの)家族写真を隙間なく並べている家庭がよくある。あなたも映画や報道でそうした室内を見たことがきっとあるだろう。しかし壁いっぱいに(額装つきの)展翅標本が並んでいる室内というのは珍しい。周囲に人がいないのを幸い、私は(異世界に紛れ込んだような気分で)しばし左右の壁の標本に目を奪われた。

余談。
じつはこの時からざっと25年後、60歳の時に私は同じような光景の室内に足を踏み入れ、「あっ!」と驚くと同時にパリのこの店を思い出したことがある。その場所は岐阜市にある。岐阜公園内にちょっと古風な(謎めいた雰囲気の)洋館があるのだが、じつはそこは昆虫博物館なのだ。名和昆虫博物館。「日本最古の昆虫専門博物館」と言われている。虫が好きな人はぜひ一度、行ってみるといい。

名和昆虫博物館

【 つづく 】


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