「福田村事件」関東大震災から百年、朝鮮人・被差別部落民への差別を描く画期的大傑作

大正12年9月1日の関東大震災発生から今年で丁度百年となる。この日に合わせて公開される映画がある。脚本佐伯俊道・井上淳一・荒井晴彦、監督が劇映画初演出の記録映画作家森達也の「福田村事件」だ。

大震災発生の5日後、千葉県東葛飾郡(今の野田市)福田村で、朝鮮人と間違えられて、香川県から薬の行商に来ていた一行9名が虐殺された史実を映画化したものだ。歴史に埋もれていた事件であるが、製作者たちは日本人が知る必要があると考えて映画化をすすめて来た。支援者も多く、クラウドファンディングで3500万円集まっている。

脚本執筆の一人荒井晴彦氏から試写会の案内を受け、7月中旬に見せてもらったが、大傑作であった。
見る前は、暗澹たる気持ちになる映画かと危惧した。しかし、ラストこそ、むごたらしいシーンが出て来るが、冒頭から終わりまで、「映画」としてずっと面白い。脚本がよく練られている。実力派3人の合作は、流石の脚本。

まず、「震災の後、日本人が朝鮮人と間違われて虐殺される」という全体の筋が分かりやすい。これは、同じ時代の無政府主義者や社会の底辺を生きる女相撲の一行を描いた「菊とギロチン」(2018)と比べると良く分かる。この映画は、キネ旬2位であるものの、抽象的かつ焦点がぼやけていて内容の深い理解が出来なかった。
次に、「福田村事件」は、複眼的と言うか、重層的人物が登場し(京城にいたインテリ、在郷軍人、新聞記者、富める農民、馬丁など下層の者、劇作家、飴を売る朝鮮人、そして被差別部落民)、その様々な立場や考えが表されることで、この時代の社会の有りよう、社会の雰囲気がよく伝わってくる。

日本人が抱いていた朝鮮人への支配と差別の意識、その裏返しの恐怖心までもが描かれている。朝鮮における独立運動の弾圧を見てしまったインテリ教員(井浦新)の苦悩までも描かれることには驚く。井浦は、京城の「提岩里教会の虐殺」(史実)を長い台詞で語るのだ。
しかも、テーマは重いけれど、出て来る人間たちに、生きている人間の肌触り、息遣いが感じられる。そこがいい。例えば、教員の妻(田中麗奈)のように、官能の疼きを持っていたり、在郷軍人(水道橋博士)のように狂信的でありつつも、小柄な体躯の故か、ずっこけ的要素があったり(妻からは、「あんた、そこらへんで止めとけ」と言われるのが可笑しい)、教員は妻の不貞の証拠が豆腐の中に入っていて、それをお茶で洗ったりする。妙に人間味のある人物たちなのだ。

虐殺のクライマックスにおいて表わされる怖さと、一直線には惨殺に行かないリアルな人間の姿。すぐに攻撃しようとする者もいれば、冷静な態度で諫める者もいる。このシークエンスのハラハラ感がいい(日本人かどうか確認するために、歴代天皇の名を言わせるシーンもある)
それ故に、攻撃の開始となる、ある人物の一撃はまことに衝撃的。虐殺の時に和太鼓がドンドコドンドコ鳴るのも効果的。

この事件は、日本の近代化の負の部分が集約されて、起きるべくして起きたと思う。「負の部分」とは、天皇制、身分制、異質なものへの差別、お上に従う体制、自分の頭で考えず集団で暴徒化する傾向、といったことだ。天皇制以外にも、幾つかは、今の日本にもあてはまる。
根底は、朝鮮人と被差別者への差別意識だ。きっと、当時の平均的日本人の普通の意識だろう。これが全国津々浦々の当時のリアルなナマ日本人の姿だったのだろう。

今までの日本映画で、この時代の朝鮮人がここまでリアルに出て来る映画は無いと思う。実際、戦前は検閲があり、日本人に反抗する朝鮮人、あるいは貧困の状態にある彼らはスクリーンには登場しないのだ。
こういう映画が出なかったこと自体が、映画界の怠慢であった。怠慢は言い過ぎか。我々観客も、望まなかったのかもしれない。「暗いだけの映画」だと遠慮したいが、この映画のように日本人の反省点を指摘しつつ「面白い映画」の側面があるならまた見たい。
一度は作るべき映画であった。ドイツでナチズムを反省する映画が多数作られるように、日本も、これからも沢山作って行けばいいと思う。
映画のもうひとつの長所に、こういうシリアスな映画なのに、人気と実力のある俳優が沢山出ていることも挙げられる。よくぞ集まってくれた。
そういう意味で、この映画は画期的革命的な映画だ。

(by 新村豊三)

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