ジャックが耳をピクリとさせたのと同時に、磁天が上を見た。そして苦い表情でつぶやいた。
「もう始まるのか」
ジョーの耳にもそれは聞こえていた。
さわさわさわ…… さわさわさわ……
さわさわさわ…… さわさわさわ……
全身がむず痒くなるような、微かだが巨大な塊を感じさせる音が、頭上から伝わってくるのだ。
「いったい何事だ」
ジョーが思わず口にした問いに、磁天が答えた。
「『巣立ち』さ。俺たちが一生懸命世話をしていたほりこ様が、いっせいに農場から離れて海中を漂い始めるんだ」
それを聞いて、ジョーは胸を撫で下ろした。
「なんだ、そういうことか」
そういえばさっきジャックも「もうすぐいっせいに農場から離れるそうなので、楽しみです」と言っていた。
ところが磁天は、血相を変えてジョーを睨みつけた。
「ホッとしてる場合じゃねえ。行くぞ。ほら早く!」
それまでの冷静な態度から打って変わって慌てた様子の磁天にせきたてられ、ジョーとジャックは農場と海底から離れるように、斜め上に向かって泳ぎ出した。
ふたりの後ろについた磁天が叫んだ。
「巣立ちを狙って、主(ヌシ)が上がってくる。農場を離れた大量のほりこ様を食うためだ。それを阻止するために農場総出で応戦するのさ。離れないと争いに巻き込まれるぞ」
「なんでそれを早く……」
ジョーが文句を言い終わらないうちに、海の底から、地鳴りのような咆哮のような重々しい音が、長く響いた。
泳ぎながら振り返ると、さっきジョーとジャックが落ちそうになった巨大な裂け目から、ずるりとはみ出した何かが見える。奥の方で蠢いていたものが、外に出てきているのだ。どうやらそれは、そいつの身体の末端――手か足のようで、本体はまだ裂け目の中にあるらしい。いったい、どれくらいの大きさがあるのだろう。
あれが、主(ヌシ)なのか。
あまりに異様なので、見たくもないのに目を逸らせないでいると、そいつはとつぜん、裂け目のふちにかけた手をバネのように使って、奥から本体をはじき出した。その動きは、ばかでかい身体からは想像もつかない敏捷さだった。
突風のような水流が巻き起こった。
「わあっ!」
三人全員が、水流に当てられて身体の制御を失い、くるくる回って散り散りになった。
激しく回転する視界の端を、主の全体像がかすめた。
柔らかく、自在に伸び縮みする何本もの手(足?)。
その付け根に、これも形のはっきりしない本体があり、表面には目がたくさんついている。
(うげっ)
ジョーは心底震え上がった。
その怪物は、明らかにジョーたちを狙って、まっすぐこちらへ突き進んできた。
(第十八話へ続く)
(by 芳納珪)
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