ヌシは、恐ろしいスピードで上がってくる。
光沢のない黒い身体をたえず伸び縮みさせ、たくさんの目を青く光らせて。
ひゅん!
何かが耳元をかすめた。
水流に揉まれて、すでに方向感覚はほとんどなくなっていたが、自分を挟んでヌシの反対側から、ヌシに向けて何かが飛んでいったということはわかった。
続けて、ひゅん! と第二弾が来た。と思うまもなく、雨あられと降りそそぎ出した。
「始まったな。農場の防衛戦だ。真横へ泳げ。流れ弾に当たるぞ」
どこかで磁天が叫んだ。
ジョーは、なんとかジャックの手を探り当てた。その手を掴んでぐいっと引いたが、「真横」がわからない。やみくもに突進すると、頭の中に声が響いた。
(そっちは真上だ。背中の方向へ行け)
磁天の「思声」だ。
ジョーは顔を正面に向け、ジャックを引き寄せた。
そそり立った農場のふちに、ナマコ面をつけた作業員が大勢集まっているのが見えた。パチンコのような簡単な道具を使って、ヌシに向かってつぶてのようなものを投げつけている。
ヌシは、さっきよりも動きを鈍らせているようだった。そのためか、激しく渦巻いていた水流がおさまりかけている。
しかし、作業員たちのパチンコ攻撃はいかにも非力で、巨大なヌシに効果があるようには思えない。ヌシの勢いが弱まった原因は何だろうと思っていると、磁天の後ろ姿が目に入った。ジョーたちから少し離れたところに浮かんで、ヌシを見下ろしている。
表情は見えないが、その背中から、並々ならぬ気迫が伝わってきた。
ジョーは、磁天が素手で深海魚を真っ二つに裂いたことを思い出した。
(あんたが、ヌシをおさえているのか……?)
(早く行け。身体を探せ)
磁天から緊迫した思声が返ってきた。
ジョーは確信した。磁天は、思い描いたことを現実化する能力があるのだ。深海魚を裂いた時も、ヌシの動きをおさえている今も、磁天は自分がそうしようとする状況を頭の中で思い描いているのだ。
そのときだった。
相変わらず非力なパチンコ攻撃を続けていた農場のふちの集団から、落下した人影があった。押し出されたのか、足を踏み外したのか、落ちていった先にはヌシの巨体があった。
人影は、あっけなくヌシに飲み込まれた。
ジャックが呆然とつぶやいた。
「あの人、知ってる……よく、隣で作業してた……」
突然ジャックは、めちゃくちゃに暴れ出した。
「わあああああああ!」
「なんだ、どうした!?」
「やだ、やだあああああ!」
ジョーはジャックを必死におさえつけた。
ヌシは、人影を飲み込んだのをきっかけに勢いを取り戻したようだった。
「クソッ、おとなしくしろ! 行くぞ!」
(そうだ、行け!)
磁天の思声がまた響いた。ジョーは思わず聞き返した。
(あんたはどうするんだ?)
(こいつとは因縁があってな。今度こそ決着をつける)
(このデカブツを殺るなんて無茶だぜ)
(そんなこと言うなよ。思ったことは実現するのさ)
磁天は背を向けたまま、ヌシに向かって飛び出していった。ジョーは反射的に体が前へ出かけたが、見えない力に押し戻された。
(行け)
磁天の思声が強く響いた。ジョーはそうするしかないことをさとり、まだ暴れているジャックを抱えたまま後ろを向いた。
(……あんた、何者なんだ?)
最後にそれだけは聞いておきたかった。
思声は届いたようで、返事が返ってきた。
(中有《ちゅうう》の番人、とでも言おうか。ここへ来るのはチエクラゲにやられた者だけじゃない。無念を抱えた魂が水葬された死体からさまよい出て辿り着く場所でもあるんだ。そういう魂が集合してオレが生まれた。それからずっとオレは、間違ってここへきちまったヤツを追い返す仕事をしているのさ……)
磁天の声は急に小さくなり、消えた。
ジャックは暴れ疲れたのか、すっかり力が抜けてぐにゃりとしている。
ジョーは夢中で泳いだ。磁石が引き合うように、自分の身体のありかが感じられた。
下の方から、ふわあっと明るくなった。無数の白っぽい小さな花のようなものが、海中を埋め尽くす。
農場を離れた「ほりこ様」だった。
どうやら、磁天はヌシを倒したらしい。
夢のような光景の中、ジョーは海中を漂っている身体を見つけた。
(第十九話へ続く)
(by 芳納珪)
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