巨大な馬が、夜空をバックに燃えさかっていた。
揺らめく炎は冷たく青く、どんなに焼かれても馬は永遠に燃え尽きることがない。
グレコが接触テレパシーで伝えてきたイメージと同じ光景が今、現実に目の前にある。
その青く燃える馬は、恐ろしい「ノルアモイ」そのものだ。
立体都市の中層階の住人なら、たいてい子どもの頃にその言い伝えを聞かされたことがある。
万能銃〈ムラマサ〉を取り出そうとしたが、手は凍りついたように動かない。
こめかみが冷たくなり、全身から汗が吹き出す。
私は思わずひとりごちた。
「なぜだ……なぜ、私が時間兵器の実験台に」
そうとしか考えられなかった。街を行く人々がみんなせかせかしているように見えたのも、月世界中華そばのおかみさんが聞き取れないほど早口だったのも、私の時間が、私以外の人の時間よりも相対的に遅くなっているからだ。
ごちゃごちゃと入り組んだ配管の上に立つ馬は、鋼鉄の首を巡らせると、私を見下ろした。
ペリドットのように光る両眼に射すくめられ、身動きが取れなくなった私の頭にねじ込まれるように、声が聞こえてきた。
(我は、汝の恐怖に感染した)
その声は私の頭蓋を占領し、視界いっぱいにその姿が広がった。
――見よ、ノルアモイが駆け下りてくる。
それからどうしたのか、よく覚えていない。
気がつくと、夜が白々と明けつつあった。
周りは配管と設備の立体迷路。どうやら、ロ号歩廊のそばの違法建築街の一角にいるようだった。
私の横の床の一部が、ヒョイっと押し上げられ、蛙人(カエルじん)が顔を出した。ぼんやりした顔のその蛙人は、私に気づくと驚いたように声をあげた。
「赤ワシのだんなじゃねえですか!」
月世界中華そばのおかみさんと同じように早口だ。
彼はぼんやりした顔に似合わず、キビキビと上げ蓋の中から出ると、膝にめり込むような勢いで頭を下げた。
「いつぞやはお世話になりました。おかげさまで息子は今年、成人を迎えまさあ」
思い出した。何年か前、嵐の日に水槽から流れて行方不明になった息子を探し出してやったのだ。
私はくちばしを開きかけたが、おかみさんの反応を思い出してやめた。今の私の喋りは、通常の時間の中にいる者にとっては恐ろしくゆっくりなのだ。
「どうしたんですか? 顔色が真っ青ですよ」
蛙人は心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「よかったら、うちで休んでいってくだせえ。むさ苦しいところですが。わっしはこれから仕事に出かけますが、良くなったら勝手に出ていってくだせえ。鍵なんてものはこの辺りじゃ誰もかけやしませんから。さ、さ」
蛙人は、テキパキと私を家の中へ招き入れると、あっという間に出ていった。
じめじめした家の中で一人になり、ようやく落ち着いてものを考えられるようになった。
ノルアモイの時間兵器はどうやら、「恐怖」を媒介して作用するらしい。
記憶の中にあるノルアモイに対する恐怖のイメージと、実際のノルアモイの姿が結びついたとき、その人の時間だけが周囲からズレるのだ。
ロスコはおそらく、そのようにして時間兵器を浴びてしまったのだ。
私は肉眼でノルアモイの姿を見たわけではなく、ロスコが見た映像をグレコを通じて見たのだが、それでも時間兵器が作用してしまった。
グレコは「ノルアモイ」の言い伝えを知らないようだった。当然ノルアモイに対する恐怖も持っていないから、ロスコの記憶映像を見ても、時間兵器が作用しなかったのではないか。
それにしても――。
たしかに私は、子どもの頃に聞かされた「ノルアモイ」を恐れていた。だが、子どもならではの恐怖体験など、多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。
ノルアモイに対する私の恐怖は、レディMの所に行ってから異常に肥大していた。
レディMの口から「ノルアモイ」という言葉が出たときに私がコーヒーをこぼしたのは、説明のつかない恐怖を感じて動揺したからだった。
そして、彼女の協力の依頼を断ったのも、ノルアモイのことを考えるだけでいても立ってもいられないほどの恐怖で頭がいっぱいになるからだった。
あきらかに、私の体に異変が起きていた。
考えられる原因は、物質転送装置で転送されたことだ。装置の瑕疵はレディM自身が認めていた。
私にかけられた「時間の魔法」を解くためには、ノルアモイという魔法使いを倒さなければならないのだろうか。
そうだとしたら、どうやってこの恐怖に打ち勝てばいいのだろうか。
(第十二話へ続く)
(by 芳納珪)