すべての客がいなくなり、後片付けがすっかり終わっても、バー「山猫軒」の店内には、熱狂の余韻がまだ残っていた。
路地奥の暗がりにあるひっそりとした店だが、立体都市でいま一番人気の歌姫、カテリーナが飛び入りで出演するというサプライズは、都市の隙間を徘徊するドブネズミたちによってまたたく間に広められた。
幸い、店の外にまで客が溢れる前に三曲歌い終えたので、近所迷惑にはならずにすんだ。それでいてチャージはしっかり徴収したので、山猫軒のオーナー兼バーテンダーのジョーは大変満足だった。
今、ジョーはカウンターの中で、彼の妻であるカテリーナはスツールに腰を下ろして、一息ついているところだ。
店の奥の住居に通じる扉が細く開き、白銀の毛並みを持つ猫少年が遠慮がちに顔をのぞかせた。風呂上がりらしく、さっぱりした様子だ。カテリーナの息子のアレキセイである。一年前までは発掘作業員だったが、今はエリート音楽家を養成するトキ音楽学院の特待生だ。
「まだ何か、お手伝いすることありますか?」
「ありがとう。もう終いだよ」
ジョーは笑顔で返事をしたが、少年はすぐには立ち去らずにもじもじしている。そこでジョーはさらに言葉を継いだ。
「明日の支度はすんだのかい」
「はい、もうすませました」
「そうかい。今日もいろいろありがとう。ゆっくりおやすみ」
心のこもった言葉に安心したのか、少年はようやく笑顔を見せた。
「はい。おやすみなさい、ジョ……お父さん、お母さん」
そう言って扉を閉めたが、最後に彼の顔に浮かんだ照れたような表情は、自分の言い間違いに対してか、それとも「お父さん」という言葉を口にしたことに対してか、判然としなかった。
ジョーは、ため息とも笑いともつかない、短い息を吐いた。
「無理に呼ばなくてもいいのに」
向かいに座ったカテリーナは、少し首を傾げて夫の顔を見上げた。
「私はそう呼びなさいなんて言ったことは一度もないわ。あの子なりの思いがあってのことでしょう。気になるなら、直接伝えたらいかが? あの子はもう十六歳よ。じゅうぶん大人同士として話ができるでしょう」
ジョーは、眼帯をしていない左目をゆっくりまばたきして、返事とした。
それからポットに水を入れてコンロにかけ、湯を沸かし始めた。
「今夜はお疲れ様でした。あなたの歌を自分の店で聴くことができるなんて夢のようです。本当にありがとうございました」
「どういたしまして。改装費用の足しに少しでもなったなら嬉しいわ」
冗談めかして言うカテリーナを、ジョーは穏やかな表情のまま、じっと見つめた。
「私はあなたにそんなことを考えてほしくありません。あなたは何も心配せず、歌のことだけを考えていてほしい。そう願うのは私のわがままでしょうか?」
「あら、私の思考は私の自由よ」
ジョーは苦笑した。
「これは一本取られましたね」
「ごめんなさい。あなたが優しさからそう言っているのはわかるわ」
「……ハーブティはいかがでしょうか。カモミール、ラベンダー、リコリスがあります」
「ラベンダーをお願い」
「かしこまりました」
後ろの食器棚からカテリーナ専用のカップを取り出し、ハーブティの準備をするジョーの手元を眺めながら、カテリーナはつぶやいた。
「あなたはいつまでたっても敬語なのね」
「お嫌ですか」
「いいえ。でも、どうしてなのかなと思って」
ジョーはしばらく、黙ってお茶に集中している様子だったが、最適な温度のお湯をティーポットに注ぎ入れ、温めたカップとともにカテリーナの前に置くと、ようやく口を開いた。
「昔の自分と決別するためですよ」
(第二話へつづく)
(by 芳納珪)
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