「ああ、どうかおすわりください。私はただ、息子さんに会って聞きたいことがあるのです……あるモノを探す仕事をしていましてね」
夫人はすわらなかった。自分を大きく見せようという心理が働いているのだろう。
「あるモノとは、四角石のことでしょう?」
「そのとおりです」
あっさり言及されて、少し拍子抜けした。元歌姫は、相手の無知を憐れむように、フフンと嗤(わら)った。
「四角石だけがあっても、なんの役にも立ちませんわ」
「ほう……すると、ほかには何が必要なのです?」
私は落ち着き払って質問した。夫人が真顔になる。「だけ」が余計だったのだ。
「四角石は単なる美しい石ではない。記録媒体です。息子さんは再生装置を探しに行ったのですね? そのありかをご主人から聞いて」
たたみかけると、夫人の顔は真っ青になった。唇がぶるぶる震え出す。
「奥さん」それまで黙っていたジョーが口を開いた。「……いえ、カテリーナ・トトノフスカヤさん」
夫人が、はっと息を飲んでジョーを見た。彼は静かに微笑んだ。
「あなたほどではありませんが、私の記憶力も悪い方ではないのですよ。リカ・アムールではカテリーナとだけ呼ばれていましたが。……私は若い頃、荒れた生活をしていましたが、そこから立ち直る力を与えてくれたのが音楽でした。そして、音楽の素晴らしさを最初に教えてくれたのは、あなたです。いわば、私の恩人です。何か困っていることがあるのなら、力になりたいのです」
夫人——カテリーナは、崩れ落ちるように腰を下ろした。しばらく、苦悩に満ちた表情を浮かべて逡巡しているようだったが、やがて声を絞り出した。
「あなた方は……お二人とも、音楽アカデミーの関係者ではないのですね?」
「違います。私は私立探偵、彼は酒場のオーナーです。隣の西五塔から来ました」
カテリーナは、私とジョーの顔を交互に見、決心したように話し始めた。
「息子は、自分のなすべきことをなすために旅立ちました。それは私も立ち入ることができない、亡き主人と息子——アレキセイ・トトノフスキイとアレキセイ二世との、固い約束です。でも本当は、心配でいてもたってもいられないほどです。母親として、当然のことでしょう」
うつむいた顔から、しずくが一滴、したたった。ジョーがテーブルを回って、さっとハンカチを差し出した。
「……ありがとう」
カテリーナは小声でそう言ってハンカチを受け取ると、すばやく目元を拭った。
「結婚した頃は、夫は音楽アカデミーの期待の若手で、将来を嘱望されていました。ところがその後、幻の交響曲『ニフェ・アテス』の研究に手を染め、息子がまだ小さいころに音楽アカデミーを追放されてしまいました。その心労が元で、やがて病気になり、まともに仕事ができなくなりました。私が掃除婦などをして家計を支えたのです」
「待ってください。交響曲とおっしゃいましたか?」
「そうです」
ジョーが口を挟み、カテリーナが答えた。
そのやりとりを聞いた私は、恥をしのんでジョーにたずねた。
「私は音楽に詳しくないのだが、歌の『ニフェ・アテス』と交響曲の『ニフェ・アテス』があるということかね?」
「交響曲というのは、複数の曲で構成された長大な楽曲のことです。交響曲の『ニフェ・アテス』があるというのは私もはじめて知りましたが、その交響曲を構成するパートのひとつとして、カテリーナさんが歌っていた歌があると。そうですね?」
ジョーは私に説明し、最後はカテリーナに確認した。彼女は頷いた。
「『ニフェ・アテス』の歌のパート、それも主旋律だけが伝わっていて、交響曲全体は今は失われてしまったが、かつては存在したという言い伝えがあるのです」
「なぜ、交響曲『ニフェ・アテス』の研究はタブーとされているのですか?」
「大地信仰と結びつくからです。大地から生まれた銀猫人の祖先が、母なる大地を讃えるために作った曲。大地は必要なものをなんでも与えてくれた……その考えは、立体都市運営委員会にとっては危険思想なのです」
「そんなものですかねえ」
ジョーが不思議そうに呟いた。私も同じ感想を持った。
カテリーナは話を再開した。
「私は朝から晩まで働いていたので、息子のアレキセイは自然と夫と過ごす時間が多くなりました。その結果、息子は夫から演奏技術と、交響曲『ニフェ・アテス』を復活させるという執念を完璧に受け継いだのです」
(第十話へ続く)
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