レムリは、はずむような足取りで歩き出した。私とアレキセイは、レムリのあとについて、茶色く柔らかい地面に踏み出した。
歩きながら、あらためて周囲を観察すると、ここもやはり人工空間であることがわかった。
大きな木のように見えたのは整然と並んだ巨大な柱で、高い天井を支えている。その天井全体が、太陽に似た光と熱を発しているようだ。
道の右にはトマト、左にはトウモロコシが立ち並んでいる。ところどころで立ち働いているのは、みな銀猫人だ。青臭い匂いに包まれながら歩を進めていくと、前方のトマトの中から長衣をまとった人物が現れ、こちらを向いた。
レムリが駆けよると、そのほっそりした銀猫人はさもうれしそうに迎えた。レムリと同じ、水滴のような薄いブルーの瞳である。
我々も近づいてあいさつしようとすると、向こうから口を開いた。
「長老のアトラです。最下層へようこそ」
古代銀猫人語ではなく、我々の言葉だ。その声は、熟練の職人の手で作られた小さな笛を思わせた。
アレキセイと私は、それぞれに自己紹介した。長老が発する威厳に、私は柄にもなく緊張したが、アレキセイも同じようだった。
アトラは当然のように、「こちらです」と我々を導いた。私はいぶかしんだ。同じ銀猫人であるアレキセイはともかく、なぜ私まで、こうもあっさり受け入れてくれるのだろうか。
「恐れ入りますが、我々が来ることをご存知だったので?」
私がたずねると、長老アトラは、ほっほと上品に笑った。
「あなたがたが思うよりも、私はあなたがたについて多くのことを知っています。――アレキセイが9階で吹いたブルースハープの音を、どうやって聞いたとお思いです?」
「つまり、何か特別な情報網をお持ちなのですね」
「ほほほ。特別ではありませんし、秘密でもありません。コウモリ人のネットワークを借りているのです。彼らは超音波で離れた相手と会話し、またたく間に情報を伝えますのでね」
なるほど、そういうことか。私は下層世界の入り口で会ったコウモリ人、千夜の顔を思い出した。ではあの時点で、私とジョーのことがここまで伝わっていたのだろうか。
「アレキセイ、きみが発掘の仕事で下層に来たときから、私たちはきみのことを知っていたよ」
アトラの言葉に合わせるように、レムリが振り向いて、にっこり笑った。数瞬おいて、アレキセイの顔に驚きが広がった。
「ぼくがレムリに出会ったのは、偶然じゃなかった……?」
するとレムリは、アレキセイの横に並んでその手を取り、親しげな様子で何か言った。アレキセイはレムリを見つめ返して、ちょっと泣き笑いのような表情になった。
それでも、ぼくたちが友だちだということに変わりはないよ。レムリは古代銀猫人語でそんなことを言ったのだと思った。
レムリは少し先まで駆けていき、トマトの木の奥にいる誰かに声をかけて、真っ赤なトマトを2つもいで、私とアレキセイにひとつずつくれた。
アレキセイはさっそくかじって、「おいしい!」と歓声をあげ、尻尾をぱたぱたと振った。私も味見してみた。中まで赤く、その色の通りに濃い味だった。
アトラはにこにこしながら言った。
「あなたがたの世界に、こういう畑はないでしょう」
「この工場のことをハタケって言うんですか? ちっちゃい頃に見学に行った野菜工場は、こことは全然違う感じでした」
アレキセイは、いっぱいに見開いた目でアトラを見上げた。アトラは静かにうなずいて、私たち二人に向けて語り出した。
「遠い昔、銀猫人の祖先は大地を耕し、作物を作って暮らしていました」
大地、という言葉に、特別な感慨がこもっているようだった。
「立体都市は、初めは要塞か、シェルターのようなものだったと思われます。あるとき、この惑星の大気が汚染されました。環境破壊か、戦争か、あるいはその両方だったかもしれません。人々は都市に逃げ込み、全ての窓を封じました。世界各地にある他の立体都市でも同じ状況だったでしょう。長い時間をかけて、大気は清浄になりました。しかしその頃には海水面が異常に上昇して、都市の周囲は海になっていました。そこで住人たちは屋上に出て、その上に建て増しをしました。光が入らず設備も古くなった下層階を捨てたのです。そのとき、我々の一族のうちで特に信仰の篤いものが最下層に残りました。大地は海底に沈んでしまいましたが、できるだけ近くにいたかったのです。それから我々は、この空間を大地――『ニフェ・アテス』に歌われる大地に似せて作り変えたのです」
「ここは『ニフェ・アテス』の大地じゃないんですか?」
アレキセイが、せきこむようにたずねた。長老はやさしくほほえんだ。
「ここは、大地への憧れから生まれた、手作りの箱庭です。天井をご覧なさい。あれはキノコの発光成分を利用した光パネルです。暗闇の中を通ってきたから明るく感じるでしょうが、本物の太陽光よりずっと暗い。風も人工的に起こしています。『ニフェ・アテス』の大地は、オールドアースの上には存在しません――今は、まだ」
(第二十四話へ続く)
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