「資本主義」という宗教に対する懐疑

先日、「pk」というインド映画を見た。「好きな映画をもう1本!」でも紹介されていたからご存知の方も多いことと思う。あの映画の中では、地球のことを何も知らない宇宙人が、地球(インド)のさまざまな宗教の教義や宗教指導者の行動に対してナイーブな疑問をぶつけて宗教家たちをうろたえさせていた。

現在の日本でも、支配的な宗教の教義や宗教指導者の行動に対して、さまざまな懐疑の声が上がっている。
支配的な宗教というのは、もちろん資本主義のことである。「資本主義は宗教ではない」とおっしゃる方も多いと思うが、私はこれを一つの宗教と捉えてかまわないと思う。

まず名称について言えば、資本主義とは英語のCapitalismの和訳である。これはBuddismやTaoismと同類の言葉である。BuddhismがBuddha(仏陀)をあがめ、TaoismがTao(道)をあがめるのと同様、CapitalismはCaptal(資本、平たく言えばお金)をあがめる。

機能的にも、資本主義は宗教の持つ重要な機能を複数持っている。
第一に、倫理・道徳。倫理・道徳の枠組みを与えることは宗教の一つの重要な役割と考えられるが、資本主義は、勤勉、誠実(契約の遵守)という道徳を教えている。
第二に、「私」という存在の主観的拡大。以前私は「私」の時間軸上の拡大(先祖や子孫と関係を持ち、主観的に一体化すること)が宗教の重要な機能の一つであると、かなりしつこく強調した。
資本主義も、現在の人間と将来の人間を結びつける働き(「私」および「私たち」の時間軸上の拡大)を持つ。個人の財産、国や地域の社会資本は、次の世代に引き継がれ、現在の私たちを将来の人々と結びつけるものである。同様に現在の我々は、先祖の築いた財産(社会資本を含む)に少なからず依存している。
個人として自分の子供に財産を残すことや、自分の作った会社の存続・継承に「宗教的」な情熱を傾ける人は多い。もちろん、負の遺産を残すこともある。
正の遺産であれ負の遺産であれ、お金−資本は現在の人間と将来の人間を関係づけ、一体化させるものである。
なお宗教には、「私」を同時代に生きる人々に結びつけ、主観的に一体化する機能もあると思われるが、これについては今後考えて行きたい。

一方で、資本主義には、宗教としては不完全なところもある。
たとえば資本主義には造物主も天地創造の神話もない。だが、それを言えば、仏教の教義にも造物主や天地創造の神話はない。
物の本によれば、昔ヨーロッパでは、この点を重視し、仏教は宗教でないという考え方があったそうである。今そのようなことを言う宗教学者はいるのだろうか? 神道には国産みの神話があるが、イザナギ、イザナミを造物主と呼べるだろうか?
神という存在を考えるならば、個人や社会に対して絶大な(時には致命的な)影響力を持ち、人による制御を受け付けない「市場」が、資本主義における神と言えるのではないだろうか。

(次回へ続く)


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