心を紡いで言葉にすれば 第5回:トンネルを抜けたら、そこは……

『マルコビッチの穴』というアメリカ映画があります。大好きな作品の一つです。
ものすごく雑に説明すると、ある場所に、名優ジョン・マルコビッチ氏の脳内に繋がる穴が空いています。いろんな人がその穴を通じて、数分間、マルコビッチ氏の体内に入り、その視点から物事を見たり、その肉体を使っていろんなことをして、いろんなことに気づく、というお話です。

この作品を観たとき、私は喜びと感動で打ち震えました。

自分ではない、誰かになりたい。
そういう願望みたいなものを、ずっと持っていたような気がします。

でもそれは、羨望や現実逃避から来る「あの人みたいになりたい」とか「あの人だったらいいのに」の類ではなく、その人の視点から物事を見てみたい、というものです。
観光地にあるライブカメラを遠隔操作して、自分の見たい風景を見ることができるサービスがあるけれど、あんな感じで、その人の視点から何かを見てみたい。

おそらく私は、他の人がどんなふうに物事を見ているのか、ということに興味があるのだと思います。映画の中では、穴の出口はマルコビッチの脳内しかないけれど、もっとたくさんの誰かの脳内に繋がるトンネルがあればいいのに。

高速道路のトンネルを走っていると、途中に電光掲示板があって、走行上の様々な注意事項が示されているのを目にすることがあります。
その中に、『出口雨』とか『出口ユキ』というものがあるけれど、あんな感じで、『出口山本善子』とか『出口小田原泉』というものを妄想してしまう。

私は、自分の視点から離れて、誰かの視点に立ってみたいのです。
いつも見ているものを、違う観点から見てみたい。

それは、ともすると自分の視点から離れられなくなって、物事を主観でしか捉えられなくなることへの恐れや警戒があるからなのかもしれません。視点を変えると、景色も変わるし、考え方も変わる。自分を縛る自分から解き放たれるような気がする。

8080号室で綴られるもう一つの文章、小説『誰かのために』第七話で、異なるフロアにある主人公の部屋を訪れた住人が、自分の部屋から見える景色との違いを口にするシーンがあります。

いつも見ているものも、視点を変えると全く異なって見える。
そういう経験は、おそらく皆さんにもあるのではないでしょうか。違う場所から見るとか、少し時間を置いてみるというような物理的な変化はさておき、この〝視点を変える〟という行為、実は意外と難しいのです。

『心を紡いで言葉にすれば』の第1回で、子どもという存在は、内言をだだ洩れしちゃう生き物である、という話をしました。

漏れ出した思考を内なる言葉として留めることができるようになるためには、〝自分以外の誰かの視点〟を意識する必要があります。
〝誰もいないのに誰かと話をしているかのように話す自分を、他の人はどう思うか?〟というように、自分が人からどう見えるのかを知るには、この世には、自分以外の誰かの視点がある、ということを知らないといけないのです。

心理学の有名な実験課題に、『三つ山問題』というものがあります。
1メートル四方の台座の中央に、形状も特徴も大きさも異なる三つの山が、互いに不規則に重なり合うよう置かれています。

まず、子どもたちは、台座の周囲をぐるっと360度回ってその様子を観察します。
その後、台座のある一か所に陣取り、そこから見える三つの山の姿を描きます。
描き終えたところで、今、子どもがいる位置とは異なる場所に人形など置いて、その人形から見えると思われる山の姿を描くよう求められます。その際、子どもたちは、実際にその人形の位置に行くことはできません。あくまでも、自分が今いる場所から、さっき観察した360度の風景の記憶と照らし合わせながら、人形の見える景色を想像して描くのです。

この実験を行うと、多くの子どもたちが、自分が実際にいる場所から見える山の姿と同じものをもう一枚描く、ということが知られています。
自分がいる場所以外の視点を取ることができないので、〝人形がいる場所から見える山の重なりは、自分がいる場所から見える山の重なりとは異なる〟ということを想像することができないのです。

これは、『前操作期』という、認知的に未熟な発達段階にある子どもに特有の傾向で、『自己中心性』と言います。
自己中心というと、〝わがまま〟のようなものを想像しがちですが、ここで言うのはそういうものではなく、自分以外のところに視点を移動することができないがために、自分の視点からしか物事を捉えることができず、結果的に〝自分(の視点)中心〟の考えになる、というものなのです。

自分の視点からしか事象に向き合えない子どもは、好きなおもちゃを既に誰かが使っているのを知ると、「僕が使いたいのに、なぜあいつは先に使っているんだ」と憤り、その子から力ずくで奪おうとします。そのとき、親や先生は言うでしょう。

「どうして取るの? 使いたかったら『次、貸して』と言いなさい。もしあなたが楽しく遊んでいるとき、いきなり誰かに取られたらどう思う? 相手の気持ちになりなさい」

そう言われて初めて、子どもは「おもちゃを奪われた友達」の視点を考えます。
そしてその視点から「もし僕が同じことをされたら嫌だ。僕はひどいことをしたのかもしれない」と、自分の行動を見つめます。その時に自分や友達が感じるであろう気持ちを想像し、「友達は嫌な思いをしたのかもしれない」と気づくのです。

このような教育的経験を積んで〝相手の身になる〟ということを骨の髄まで教え込まれ、物事の認識の仕方や思考が深まるようになると、自己中心的な傾向は薄らいでいきます。そして、自分以外の誰かの視点を意識し、積極的にその人の立場で物事を捉えられるようになるのです。このことを『パースペクテイブ・テイキング(視点取得)』と言います。

先の『三つ山問題』は、子どもの視点取得の有無を調べるために行う、古典的な実験です。
人は生まれながらに、誰かの視点と自分の視点を自由自在に行ったり来たりできるわけじゃないのです。自分とは違う視点から見るって、意外と難しいのですね。

皆さんも「相手の身になって考えなさい」と言われたことがあるかもしれません。
あるいは、誰かに言われたわけではないけれど、そうありたいと心がけているのかもしれません。
〝相手の身になる〟とは、自分の視点から離れて、誰かの視点を取ることから始まります。

世の中にはいろんな人がいて、同じものを見つめていても、自分の見え方とは異なる景色があることを意識するというのは、とても大切なことです。
でも、誰かの視点から物事を見つめるだけでは、相手の身にはなれないのです。その人の目線の先を見ようとすることと、その人の気持ちを感じることは別物だから。

誰かの脳内に繋がるトンネルは、あくまでも〝そこに行ける〟というだけであって、〝それになる〟というものではない。先述の『マルコビッチの穴』でも、マルコビッチの脳内に入った人は、マルコビッチの体を使っていろんなことができるようになるけれど、マルコビッチそのものにはなれなかったように。

この辺については、また別の回で綴ってみたいと思います。

(by 大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

『マルコヴィッチの穴』、面白かったですねえ。「全員がマルコヴィッチ」というあのポスターのヴィジュアルが忘れられません。それはさておき、「たとえ誰かの視点に立ててもその人の気持ちにはなれない」ということは、年を経ると、他ならぬ昔の自分の視点を再現しても気持ちまでは再現できない、なんて時になるほどこういうことかと実感したりもします。謎多き他者(自分も含む)に囲まれて生きているのだから、少しはその視点や気持ちに興味を持てた方が楽しく有意義に過ごせそうなのは確かですね。

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